どんな風にみんなに報告しようか、

まず、ハブはめったに出ないとの事。
手榴弾も、栓引いたり、激しくどうとかしない、と、大丈夫。
骨も、別に怖くない。
作業も、みんな和気あいあい。

でも私は2日目に手を止めてしまったの。
骨を出してあげないと、と、思っていたけど、自分の中でいろんなことを考え始めてた。

私は敵国だった、連合軍側の捕虜の事をやってる。
もともとは、あの時代のアメリカの切なくて美しい歌を愛しちゃったからなんだけど、
気がつけば、不思議な縁で、いろいろな人と出会った。

福岡で捕虜だったのドナルドさんとの出会いは勿論、
いつも、不思議だけど、必然で、これでいいんだろうな、って思って、流れに任せるようにあの戦争の残されたものに関わる。

捕虜に関する事をやっていると、
元捕虜やそのご遺族の方々の感情を垣間見る。
解消されない心のしこりのような物があって、それが日本人の私の心に突き刺さるんだ。
何かの正当性や、どちらかの正義を主張されるとき、私の心の中である種の拒絶反応が起こったりするの。

私は生まれ育った門司に捕虜のメモリアルを作りたいと思ってる。
そこは、南方から多くの捕虜が運ばれてきた港だった。の。

私の町は当時沢山の空襲があったり、多くの兵士が出征をしている港だったり、
ひとつを知れば、また別のことを知る。
その度に、色々な物語にめぐり合って、人々のさまざまな都合や感情を垣間見る。

メモリアルのプロジェクトを行なうに当たって、
知っておかなくてはいけない歴史を知っていくにつれて、いろいろな事を感じて考える。

今、戦争を体験していない部外者の私が思う事は、
どちらも大切な命。
敵も見方も無い。

北九州にある、サンレーという会社の社長で、作家でもある佐久間さん(一条真也さん)とお会いしたときに彼が言っていたの。
サンレーは冠婚葬祭の会社で、佐久間社長は「命を送る」事の大切さを真剣に考えている方だと思う。

2日目、ヌヌマチガマ、という豪に入ったの。

そこは、あの当時野戦病院だったの。
とっても大きな、長い、豪で、ヘッドランプが必要で、湿ってて、雨靴で、滑るから、気をつけて入るんだ。
その手前の方での作業だったの。

そこは、思ったよりも、怖くなく、平気だった。
私もしばらく掘ってみた。
粘土みたいに固くて、なかなか掘れないんだ。
でも、すぐに、薬のビンとかが出てくる。
でも、かたくて、なかなか掘れないんだ。

のどを潤して、みんなの作業をiPhoneで動画に撮ろうかな、と。
撮り終わって、みんなの背中をしばらく眺めてた。

それから少し掘ったけど、
手が止まった。

豪の中でビニールシートに座って、ずっと考えてた。
ここ、怖くないな。って。

向こうから、作業をしている人たちの声が聞こえる。
時々笑い声が聞こえる。

しばらくして、トイレに行きたいから外に出た。
トイレから帰ってくると、地元のガイドの女性がなんか、色々言っていた。
これから修学旅行の子供達が来るから、作業をされると困るとか、ここにバスが来るから車が邪魔みたいな事とか。
ちょっとヒステリックな感じもしたので、なんかちょっと嫌だった。

しばらくして、私、豪に戻ろうとした。
途中で、一人のスタッフが、豪の下から私に合図をする。

ライトを消して、ここに今来ちゃダメ、と言う合図。
でも、そこを抜けないとみんなに会えない。

だからライトを消して、真っ暗な中で待ってた。
ガイドさんの話が聞こえてきた。

優しい声だった。
この人にとってとても大事なものがあるんだと思った。
それと、アメリカに対して許せない気持ちも。

暗闇の中でどうしていいのか、解らなくなった。
説明が終わり、子供達が上がってくるので、道を空けるために一度上に上がり、その後、またその豪へ向かった。
あれ?あれ?何度も行ったり来たりした。

あれ?

もしかして・・・。あっちの道?
みんながいた時、安心した。
たどり着いたとき、もう最後の片づけだった。

彼女の想い、野口さんの想い、作業をしている参加者の想い、アメリカ人の元捕虜やオランダ人の想い、
原爆ですら、投下される事は、日本ではすでに知っていた。
私の祖父は、知ってた。
莫大なお金をかけて研究したウラン爆弾とプルトニウム爆弾。

誰がいいとか悪いとか、考えたくない。
どちらの命も大切。
わたしは戦争を知らない、部外者。

正義や、正当性、を主張するとき、
自動的に、悪、ができる。

あの戦争の意味や、真実を、知りたいとは思うけど、
それが解って、それらを知ったときに、ショックを受けて壊れてしまう人たちもいると思う。

イラク戦争からの帰還兵は今になって多くが自殺をしているらしい。
イラク戦争ってなんだったんだろう・・・
そんな事より、彼らが何をしてきたと言う事より、「自国の政策のために命をかけた」と、信じて生き続けてほしい。

日系人の442部隊のドキュメンタリーでダニエルイノウエ上院議員が、「動物をはねた時の感触ですら忘れられないのに、人を殺した時の事を忘れられる事は無い」みたいなことを言っていた。
戦場で人を殺した人たちは、その事を語ろうとしない。らしい。
人を殺したことを自分の子供や家族に話す事よりも、それを心にかたくしまって、幸せそうな家庭を作ってもいいと思う。

戦争で人を殺した人の、心の傷も、人を殺した事の無い私には解らない。
大切な人を戦争で失った人の心の悲しみも、解った振りは出来るかもしれないけど、本当は解らない。

今年、北九州は瓦礫の受け入れの事で色々と取り上げられた。
元々北九州で生まれ育った人たちの多くは、困ってるんだったら受け入れてあげようよと。賛成の人、多かった。

北九州の瓦礫受け入れ反対の活動をしている人たちのフェイスブックページを見ていた。

北九州には独特な土地の歴史があり、難しい土地だと思う。
100万都市といっても、五市が合併をし、それぞれが今ひとつ解け合うことなく微妙に分離している。
そういった事も踏まえて考えたほうがいい、と、言ったら、

北九州の人は、無知だ、とか、勉強不足だとか、私に対しても勉強不足だとか、バッシングされた。

そのフェイスブックページにコメントをしている人の参加者の居住地を見て回った。
元々北九州に住んでいる人はとても少なかった。
その事を伝えると、

そこで、生まれた、とか、北九州に住んでいたとか、何らかの縁がある、と、言って、私はまた攻撃された。

私は沖縄の人の気持ちは解らない。
解った振りは出来ても、解らない。

沖縄で、いろんなことを感じた。
豪の中に入ってドロドロになりながら、かたい粘土層を掘る事で、いろんな事を考えた。

参加者のひとりひとりが、それぞれの思いを持って「野口健」という人の旗の下に集まり、出会い、それぞれがそれぞれの思いや課題を持って帰ったのかもしれない。
私は、私の課題と経験、体験を持って帰ってきた。
掘らせていただく事で、私はいろんなことを学ばせてもらった。

50年以上も遺骨収集を続けている国吉さん。
子供の頃の歌、戦争の事の歌なのに嬉しそうに歌うの。最後の日は7曲。
私には解らない大切な子供の頃の何かがあるんだと思う。

仏教の言葉で、
袖刷りあうも他生の縁という。

他生=前世

その土地に行き今回のような活動をする事も、他生の縁なのかもしれない。
ひとりひとりが、何らかの縁や意味があり出会い、参加したのかもしれない。


参加できた事にとても感謝してる。
準備やサポートをしっかり行なってくださった野口健事務所の方々に心から感謝しています。

動画は九州の自宅に帰ってからアップするね。