愛し愛される、って、いいと思う。

でも、私、良く思うの。

私は人の愛し方を知っているのだろうか?

愛の形は色々あるだろうけど、私は、多分、人の愛し方を知らないと思う。

セッションでよくあるのは、
お母さん、もしくは、お父さんに、もっと愛されたかった。という想い。

あなたは、愛されていたのよ。
望まれたのよ。

とは、あまり、私は言わない。
そういう温かいシーンが見える事もあるけど、多くの場合、親自身が、それぞれの何かを抱えている中で子供たちを育ててたりする。親自体が、愛し方を知らずに、親自体が、愛された過去が無い場合も多くある。

だから、愛する、という事が、解らなかったんじゃないかな、って。
お魚屋さんで、ケーキを下さい、と、言っているみたいに、無いものを求めているんじゃないかな。と。

私が、今の時点で思う一つの事に、
その人が、どれだけ、自分を愛しているか、自分にどう接しているか、その分だけしか人への接し方を知らないんじゃないかな。と。

私は、多分、模索している。

私を好きだと言ってくれる、女子たちはいっぱいいる。気がする。
私にできる範囲で、彼女たちの過去や事情を尊重したいと思ってる。
自分に正直に生きようとしている人達の幸せを本当に望んでいる。

でも、私は彼女たちを愛しているのか、と言えば、愛し方を知らない。

大人になって私が気付いた、私が両親に求めた、愛、は、
理解と尊重。
そのままの私を受け入れて欲しかったのだと思う。

でも、それが、愛なのかは解らない。

私の場合は、それを与えてくれたのは、黒人のミュージシャン達だったの。
多分、彼らは何をした訳でもないと思ってる、と思う。
私は彼らに初めて、当り前に、そのままの私を受け入れてもらえた気がするの。

人はインプットされたものを発する。と思う。
だから、否定的な言葉で育てられた人は、他者に対しても否定的な言葉を吐きやすい。

だから、肯定的な言葉もインプットしないといけない。
そうしないと、肯定的な言葉を発する事が難しい。
否定的な言葉を浴び過ぎると、すでに、どこかで歪みやねじれを起こしていたりする。

私も、そうだったと思う。

愛、も、そうやって、受け継いでないと、
人の愛し方が解らない気がする。

実は、愛し方がよく解らない人って、多い気もする。

私は、多分、人の愛し方を知らない。
だから、模索するし、私にとっては実験や挑戦な気がする。