時々、コンサートやライブに行ってて、不思議に思う事がある。←ま、性格悪いかもですのでっ

この人たち(観客)、何がよくって、喜んでるんだろう。と。
もちろん、それぞれの好みがあるけど、どう考えても良くないであろう(あるんです、完全なる勘違いや、間違いなもの)、と、感じるライブでも、喜んで聴いている人や、拍手をしている人や演奏をしている人を見ると、どうしていいか解らなくなる。

20歳からNYに住んだ私。
始めの頃は、コンサートやライブはほんの時々しか行ってないかった。私は、1940年代の音楽が好きだから、1990年代に活躍しているジャズミュージシャンの事も、音も、全然知らなかったの。私が知っている歌手のほとんどは、すごく高齢かすでに死んでる。だから何を見に行ったらいいか解らなかった。

時々、おつきあいで、ライブに行ってた。
一緒に行った人は、笑顔ですごく良かったというけど、何がいいのか解らなくて、困る事がよくあった。ジャズの構成いうの?テーマがあって、順番にソロとって、最後にテーマに戻るとかも全然知らなかった。なんてったて、もともとは歌謡曲で育ったんだもの~。

私は、歌詞しか解らない人だった。だから、ジャズでも、歌を聴く時、演奏を聴く時、いつも、歌詞の物語を基準にして、演奏者と音や歌を聴いていた。

ある日、知人が、
「しょうこちゃん、この前見たライブはどうだったの?」
「あ、、、良く解らなかった。でも、あまり好きじゃなかった」
「自分がよくない、と思ったら、何でよくないのか、どこが、どう良くなかったのか、その理由を考えてみなさい。それはとても大事な勉強よ、」

人や、偉そうな、立派な人や、広告や、評論家が、どれだけいいと言っても、自分にとって納得いかなかったり、物足りなかったり、心地悪かったり、よくないな、って、感じたら、「なんで?」「どこが?どう?」と、考えるようになった。それは反対に、良かったと感じた時も、何がどう良かったのか、すんごく、すんごく、考えるようになった。

20代の半ば頃、人と音楽や映画を見に行く事が殆ど無くなった。
理由は、一緒に行った人に気を使うし、同じようによかった、悪かった、と、共感できる人はとても少ない事に気付いたから。

私が、あるジャズ界ではすごく尊敬されているドラマーの音をカセットテープで初めて聞いた時、「この人は、歌の歌詞を知っていて、ドラムで繊細に物語を語ったり、装飾したりする」と、感じ、彼が大好きになった。数年後、彼と知り合い、彼がドラムプレイするよりも、歌が好きな人だと知った。

彼が元気だったころ。
彼は、私をとてもかわいがってくれたと思う。
彼は、コンサートの後や、何かを聴いた後に、「どうだったか?」と、私に質問した。彼が「そうだよ」と言う度に、私はちょっとずつ自分の感性や感覚が間違っていない事を確認していった。でもね、「あれ、好きじゃなかった」と言うと、それがとてもいい場合は、ちょっと諭されたり、アドバイスをもらったり。

あるコンサートの後、「ねぇ、今日のあの人、ピアノを弾けば弾くほど、物語が無くなって行って、好きじゃなかったわ」と言うと、「Seina、そんな事は、(僕たちは)みんな解ってるんだよ」と、言った。どれだけの人が拍手をして、喜んでも、私の耳とハートにどう届くか、自分の感覚を信じる事をそういう体験を通して、学んだと思う。

昔は、聴く音楽のジャンルも狭かった。
初めてクラシックの演奏が素晴らしいと感じたのは、20年くらい前にカーネギーホールでみた小沢征爾さん。初めて、クラシックのコンサートで居眠りしなかった。音楽を愛している人の素晴らしい指揮だった。

ある日、NYで結構有名なチェンバーオーケストラに所属する友人のコンサートに行った。現代音楽だった。正直言って、困ってしまう位、良くなかった。演奏者が楽曲を理解していないのか、演奏と楽曲にもすごい壁があって、困っちゃって、周りの観客を見ると、居眠りしている人や、理解に困っている人たちもいた。終わると、みんな一斉に拍手をし、素晴らしかったと言った。聴いている方も、それを理解できない事に不安を持つのかもしれない。

本当に素晴らしい演奏だった時は、会場のエネルギーが全く違う。そういうのも、いろんなのを見て育てられるんだと思う。

私は、サルバドールダリが、まったくもって好きではなかった。
フロリダ州に行った時、やる事がないから、2時間ほど車を飛ばして、セントピーターズバーグにあるダリの美術館に行った。本物のダリの作品を見て、素晴らしいと思った。その時に、本物を知らないと何も解らないのかもと思った。

去年、初めてNYのユダヤミュージアムでシャガールを見た。
なんか暗いけど、洒落たイメージ、という、イメージを勝手に持っていたけど、本物は違った。本物を見ないと伝わらない、解らないものがある。

きっと、音楽も、絵も、生の本物じゃないと、感じられないエネルギーがある。
憧れや、知名度、広告、評論、そういうものを取っ払って、その作品対自分で、感じて、考える。

沢山の本物と、沢山のあまり良くないかもな、演奏や絵を見たり聴いたりする。自分で感じて、自分で考える。そうすると、おのずと感性が磨かれてくる、というか、研ぎ澄まされてくると思うの。解らないなら、解らないで、解ったふりをせずに、今の自分には解らない、でいいと思う。解らない事、理解できない事は恥ずかしい事ではない。解ったふりほど、馬鹿らしいことはない。

クリスタライズの感情に関する仕事でも、私は、その人が、本当はどう感じるか、どう思うか。自分に対する正直さにフォーカスをする。人が言う事、一般的な常識、立派そうな人が言う事、周りの反応、ではなく、その人の心はどう感じるか。その人の中の、その感覚を堀探し、オイルを使いながら泥をとっていく。そんな感じ。

自分に正直であること、は、感性を磨く上で、とっても大事なことだと思う。その上での、いろんな経験が、より、感性を磨いていくのかも。

私は、さ、キューバの音楽もっと感じたいから、スペイン語も頑張るよ~(*´゚∀゚`)ノ