不完全である事って、人間として美しい気がする

不完全である事って、人間として美しい気がする

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エッセイ



ゴロゴロしてます。
でも、私のゴロゴロは、とっても大事な時間。思考以外を出来るだけ止めて、自分の頭でいろんなことを考える。

25年前のボス。よくぶつかったw。

25年前のボス。よくぶつかったw。今日はこの写真を使おうっ



他人に対して、色んな事を考える。
集団に関して、色んなことを考える。
嫌いな人の事、嫌な事。
仲良しの人の事、尊敬している人の事、お世話になった人の事。
いい人だけど、どうでもいい人たちの事。

多くの人たちは「いいひと」になろうとする。
自分のいい側面を他者に、公に見せようとする。

その人に憧れる人たち、
そうやってよく解らない、虚、のようなもので何かが出来て行く。

本当の事は何だろう。
この人は本当はどんな人だろう。

そんな事は、多分、多くの人は考えないのかもしれない。

そういう人達を見て、ちょっと気持ち悪くなったり、孤立感を感じたり。

昔は。
より完璧を目指しなさい。とか、
人の役に立つ人になりなさい。とか。
みんなに愛される人になりなさいとか。なりたいとか。

そういう事を大人たちや時代や教育で刷り込まれた気がする。


完璧って何だったんだろう。
どのひな形を持って、完璧というのだろう。

今日、音楽を聴きながら、完璧である事より、その人の持つ個性や真さ、正直さ。

不完全なそのままのその人が正直に音にあらわれる事の方が私にとって魅力的だと思った。
そのままの、そのひと。だからこそ、その人がどれだけ自分に正直に生きているか、生き方が重要な気がしたの。

技術的な完璧さを求める時代ではない気がしたの。
それは、音楽だけではなく、建築にしても絵画にしても。

完璧な英語が話せなくても英語で何かを伝える事ってできるでしょ。
伝える事が出来るだけの技術があれば、完璧さはそこまで必要ではない気がしたの。

伝統を伝えるもの、例えばクラシックとか、バレエとか、そういうものは完璧さを求める必要は多くあるけどね。
それは、何かの「型」があって、型を守り伝える事も大事だとおもう。それば正統の継承でもあるというか。

でも、これから多くの価値観などから、多くの異端が出るというか、それぞれが異端であるというか。生き方も。

それは自分の外にある「型」や「スタイル」を追う事ではなく、完全性を追求するものではなく、その人自身を追求する事なんじゃないかなと。

自分にどこまで正直になれるか。
それも「自分」という本質へのひとつの完全性への挑戦かもしれない。

私もしょっちゅう、自分の弱さで、うっかり、自分に騙されている。自分が見えなくなってしまう。そしてグダグダになる。

私は、過去の経験から未だに抜けられない感情から来る自分の中の多くの弱さや歪をある程度知ってる。

それを受け止めて、甘んじるんじゃなくて、それが今まで生きて来た中で形成された、今の私だと、責めずに受け入れる。

自分から見て、
腹が立つ人、
理解に苦しむ人、
自分を傷つけた人、
嫌な人。

その人たちも、生きて来た環境の中で、そうなってしまった要因が必ずあると思う。

どうでもよい人たちだったら、切り捨てればいい。
でも、時間とエネルギーがあれば、その人たちの人生を深く掘り起こして、ある程度理解できると、その人たちを嫌ったり、憎んだり、出来なくなる気がする。

その作業をする前に、最も大事な事は、自分を知り、自分の弱さやずるさや歪を知り、自分を受け止める事が出来ていないと、他者批判や、上から目線になると思う。

かなりの時間とエネルギーが必要。
それは、愛が無いと出来ないかもしれない。

愛って、憎しみや嫌悪とも共存している気がする。

相手の深い部分が色々と理解できた時に、憎しみや嫌悪は軽減される気がする。
私は、そうやって、家族への憎しみを手放せたと思う。

完璧を目指したり、
いい人っぽかったり、
自分を抑え、いい人になろうとしていたり、

そもそも、それは、何かの自己否定な気もするし、ひな形がなんだかよく解らない。(そういう意味では宗教はひな形を与えてくれるのかも。)


そういう事に対して、不完全である事って、私は、人間として美しい気がする。

その美しさに気づく一番の方法は、自分の不完全さを知り、受け入れ、愛する事からな気がする。

でも、その相手がその人自身の弱さや歪を受け入れ、その人がその人自身をある程度理解できてないと、折り合う事は難しいと思う。




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