「寂しさ」「解り合う」「自分を信じる」について考えてた②

「寂しさ」「解り合う」「自分を信じる」について考えてた②

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エッセイ



解ってもらえないと感じる時、なんか寂しい。

ふと思う。

そもそも、その人は自分でどの位、自分の事を解っているんだろう。

子供なら、解ってもらいたい、理解してもらいたい、食事を与えてもらう、お小遣いをもらう、赤ちゃんなら、お尻を拭いてもらう。

大人になると、自分で食事を得、お金を得、うんこしたらお尻を拭く。

受動しかできなかった人が、能動的に行動する事が出来るようになる。

「もらう」ばかりの人は、幼稚なんだと思う。

自分を見つめ、自分をある程度理解し、自分の弱さやずるさをある程度理解し、他者の事情を理解しようとする。

自分にすら解らない自分を、他人に解ってもらいたいと思う事はおかしいと思う。もしある一部分で理解もしくは共感してもらえたとしても、それは一部分でしかない。私の全てを理解出来る人になんて出会った事はない。ある程度理解しているつもりの人でも付き合っていくうちに色んな相違点や私の勘違いに気付く。

今日、ランチを求めて、部屋着のまま外出し、野ブタの様に町を徘徊しながら←歩いている時ってふとアイデアが落ちてくる時がある。

「解ってもらいたい」、と思っている人は、その人のどの部分を解ってもらいたいのか。

自分が認識している部分を理解してもらいたいだけだったり、自分にとって都合のいい部分を理解してもらいたいのであって、そのポイントからずれると、意見が食い違うと裏切られたような気持ちとか寂しい気持ちとかになる場合がある気がする。


とはいえ、「解ってもらいたい」とは思っていなくても、「理解し合えた」「共感し合えた」という事が偶発的に起こった時、すごく嬉しいし、なんか安心する。何かの距離が縮まる。何かが繋がる。

でも、違う場面では、考えが食い違い、理解し合えない事も多くある事が当たり前な事だと思う。それが当たり前の事なんだと思う。

そうは、解っていても、解り合えたり、共感し合えた時はなんか安心する。

共感が起こる時、ハートで「一人じゃないんだ」というセンサーが作動するというか。

自分が理解していない自分を他人が理解してくれたと思った所で、多くの場合勘違いな気がする。

自分でしっかり自分を理解し、自分を信じられていたら、他人に理解されない事はたいした問題ではなくなる。

でも人間って、そんなに強い訳じゃない場合が多いので、自分を信じていてくれてる人がいると、支えられる気がする。(期待じゃないからね)

じゃぁ、どうしたらいいのか、

自分で信じられる自分を育てて行く事しかないのかな。
そしたら、自然と自分を信じてくれる人達が出来るんじゃないか。

そして、しんじ~る事は~、愛す~ることさ~♪
で、静かに信じあえる人たちが周りに出来てて、寂しさも減るし、人間の持つ孤独や寂しさと上手く共存できるんじゃないかな。

とか。

子供の頃に自分を信じる事を育てられる機会に恵まれなかった場合、どうしたら、自分で信じられる自分を育てられるのか。

まずは、自分の心に正直に向き合って、色々と考える事なのかな、とか。

ランチを食らった野ブタはブヒブヒ言いながら帰路につきました。

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