近年、

「常識を疑え」
「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」

そういう風な言葉を耳にするようになった。

私は若い頃、「常識が無い」とよく笑って言われた。

私は「常識」が何なのかよく解らなった。

みんな涼しい顔をして、「常識」「常識」と解ったように言うけど、常識とは、何を基準にいうのか。

その基準はどうやって決められ、どうしたらそれが常識になるのか。

22歳の頃だったと思う、すごく考えた。

その時、私が考えたのは

毎日3食ご飯を食べる。
私は通常毎回洗ったお箸を使う。
もし、私が育った家庭で、さっと拭くだけで洗わずにお箸を使う。毎日3回使ってさっと拭いていたら、別におかなを壊すほど菌も繁殖しないかもしれない。それが当たり前な家庭で育ったら、私にとってはお箸は別に毎回洗わないのがとって当たり前になってて、もしかして、常識ってそういう事なんじゃないかなと思った。

人と考え方や行動が違う事で共感できる人があまりいなく何だか孤立感をよく持っていたから、30歳位の時にもやはり悩んで考えた。

その時、私が考えたのは、

何が正しいとか、間違っているじゃなくて、多くの場合、マジョリティ(多数派意見や認識)が常識的に正しいとされるのではないか。

よく「常識が無い」と言われた私も

「あの人常識が無いよね」

そんな言葉を時々口にすることもある。

そういう時に、私の意味する常識って何だろう。

ある一定のルールの中で相手の事を考えない人。

そのルールはどこから来るのか、
多分、自分にとっての当たり前、モラル、そういう自分の勝手な基準だとも思う。
その基準はどこから来るのかというと、育った環境や、見てきた世界、自分の経験からなのだと思う。

若い頃、私は常識が無かったのではないと思う。
ま、世間知らずで若気の至りもあったけど、変わっていて、ちょっとみんなと違っただけなのだと思う。
彼らが経験した世界に居なかったタイプの人だったから、適当に「常識が無いよね」と言っていたんじゃないかなと思う。

「変わってるよね」

の方がまだましだったな。

「個性的だよね」

という言葉もあったな。

近年では、
多くの人と違う観点や考え方を持っている事をよいように言われる事も増えた。

時代が変われば、常識も価値観も変わる。
住む場所が変われば、経験が変われば、常識も価値観も変わる。
常識なんて、そんなものかもしれない。

「私の常識」の根底にあるルールとかモラル。
それも私の独自なものだと思うけど、イレギュラーな人間を生きるにはそういうルールは、出来るだけ大切にしたい。


20代の頃の非常識な感じの出ている写真を探したけど、私、見た目は結構普通だったので、非常識感がある写真が少なかった。

弟のシャツ着て会社の慰安旅行に
弟の服着て慰安旅行に94年頃だと思う
1992年
1992年