近年、発達障害が良く取り上げられる。
アスペルガーやADHDはよく聞く。
でも、どんどんいろいろ出てきてるようで、細分化されているようで、程度や状態はそれぞれ違うけど、どこからどこまでが障害なのか、どの域から普通の社会生活が無理なのか、私にはよく解らない。
実は
数か月前、17年ぶりに姪っ子にあった。
いろんな家庭の事情があり私たちはずっと会わなかったの。24歳になった彼女は自分の意思で私に会いたいと言った。
世界史が好きな彼女は、私がキューバに居ると言うと、色んな事を聞いてきた。彼女は特にロシアの歴史に興味があるようだった。私も驚くほどに色んな事を知ってるし、互角に会話が出来る。
彼女は興味のある分野に没頭しちゃう系の人だとも思った。
彼女は病院で発達障害と診断され、セラピーに通っていると言った。
「遺伝なんだって。多分白石の家だよ。お姉ちゃんもあるよね!?」
私の白石側の家系は画家や先生、音楽家というか、祖父や叔父たち、父も元々はピアノで生計を立ててた。祖父母がいとこ同士で、祖母側のお兄さんが画家で変わった人だった。
私は診断を受けた事は無いが、人と違う感性や、感覚を持っていて、子供の頃から周りの子供たちと理解できる箇所が違った。みんなが出来る事がなかなか出来ない事もあった。もちろん大人になってからもそう言った違和感を持ち続け、30歳の頃に自分の脳の働き方や働く場所が違うのだろうと思った。多分そうだし、そう決めた。
理化学研究所で脳の研究ラボに居る友人に、自分の脳の働きが見たいとごねた事もあったが叶わず。
もちろんそれからも生き難さを感じ続け、疎外感を感じ続けた。
私がそれをある程度克服できたのは、感情解放の作業をやった事と、自分が今までの既存の価値観や世界から出ていく事だった。
音楽の感じ方も独特だった。
耳から入ってきた音楽を処理する方法(私の場合感じる)が、とても繊細だった。だから一流ミュージシャンに可愛がられたのだと思う。
ある時私はすごい情熱で何かを追う。
そうなってしまうとある程度気が済むまで突き進む。
正気じゃないというか。
戦争に関する冊子を作った時は布団と机の往復で一日16時間パソコンに向かった。
私はそんな事が出来ちゃうのは才能だと思ってる。
でも、周りはかなり心配する。
そういえば、小学生の頃から時々、黒板と先生がふわふわして何も言葉が耳に入らないという事があった。黒板と先生が別の世界というか、透明なパネルの向こうに様な感覚。それでも、先生怖いし、父親怖いからじっと机に座ってた。そういうのは高校生の頃も続いていた。それが起こると自分でも「あ、きた、やばいな」とか。
学校ではいつの時代もちょっとした「問題児」
悪い事をするとかじゃなくて、先生たちにとって理解不能だったのだと思う。
大きな音にも敏感で、掃除機の音が怖くてしょうがなかったり。
ちょっと変わっているけど、ま、「普通」に片足をかけて生きて来れた。適当に社会で仕事やアルバイトをこなしてこれたと思う。それは父が厳しく調教したからだと思う。
そういえば、昔、あるミュージシャンの知人が、音を色で視覚的に感じるというの。
テンション音、不協和音を作る音ね、それを入れるとすごくきれいなんだって。彼は当たり前のように言うし、それが出来ない私がおかしいのかと思って色で感じようとしたけど駄目だった。私が間違ってコードをおさえたりすると不協和音が出来るでしょ、凄く喜んだり興奮するの。間違っただけの私、目がテン。彼は音楽プロデューサーとしても音楽業界ではある程度成功をしてる。今思うと、彼も何らかの脳の、今でいう発達障害というか・・・。だったのかな。
でも、それは障害かなと思うと違う気がする。
そういう風に活用できたら、他人は【才能】とか言うんだと思う。
発達障害の人は人の気持ちがが解らないとか、空気が読めないとか言われる。
私に言わせたら、そういう人たちの方が人の気持ちや、空気、自分と違う人達への理解が出来ない障害のようにも感じる。
定型発達とかいうらしい。
でも、そういう人達って、ある一定の型や常識の中でしか判断してないもしくは出来ないからそういう人たちを「扱いにくい人」にしてしまうんじゃないかとか。
お客様のバックグランドや物語、感じ方を深く知っていくと、正直、みんな変わってるなと思う。お客さまじゃないにしても普通に見える人たちも、みんなみんな変わってる。自分が不通と思っている人達はある一定範囲の型の中に上手くはめ込んではいるっぽいけど、みんなみんな自分勝手で変わってる。もちろん先天的に独特な感性を持っていると感じる人もいるけどね。
そもそも、自分が「正しい」とか「ふつう」と思っている人が一番厄介な気もする。そういう人たちは自分の「ふつう」や「常識」のフィルターをかけて他人を見て、それが違ったら相手がおかしいとか、悪いとか。
私にもそんなフィルターはあると思う。
でも、私は自分が変わっているって解ってるつもり。だから他人が変わっていても、別に変ってるな~と流すもしくは面倒な人はスルーするw。
それでも、根底は日本の社会や親が教えてくれたモラルや常識で出来ている。それが私という人間性の基盤になってると感じる。
だから、、、キューバで苦労しているよ。
面倒な人。
わかる?
面倒な人。
それが感情解放がとっても必要な要因でもあると思うの。
後天的に色んなネガティブな思考やらを身に付けてしまった人は面倒。
昔私の旦那が、私を「面倒な人だな」とよく言った。
今はとってもよく解る。
色々歪んでたな、だから面倒な人だったわな、と、今ならわかる。
先天的にちょっと特殊な脳の働きをする人達。
先天的だったら仕方ないかもしれない。
脚が短いとか、顔がでかいとか、背が低いとか。はげとか(‘ω’)ノ
そんなのはなおしようがない。
肌が荒れて汚い、太っている、不潔、口が臭い、体臭が臭い、とかって多少の遺伝要素はあってもある程度コントロールできる後天的な物だと思うのね。
どうせ、私は顔がでかいから、顔の作りブサイクだから、チビでハゲだから、どうせモテないから、異性が相手にしてくれないから(そう思い込んでる)、そういう機会も無く、いつの間にか不潔で、口が臭くて、身体臭くなっていくのか。
そういうケースもあるかもだし。
でもさ、顔がブサイクより、でかい顔より、口が臭かったり、体臭かったり、不潔な感じの人の方が断然嫌だわよね。
で、何が言いたいかというと、後天的に性格が歪んだり、自己否定が強かったり、そういう人の方が面倒だし、一緒に居たくないと思う。でも、それは変えられると思うの。
先天性の物の上に後天性の物が加わると、どっちがどっち的になるし、何がどうで、何が問題で生き難いのか複雑に絡んでしまう。
先天性の性質は変えられない。
私は、変わってると思うよ。
でも、みんなみんな変わってるとも思うよ。
先天的に持っている自分の性質や傾向、それがとても生き難くしてきたのも事実だけど、今はそういう自分の持っている性質が私は好き。ある程度感情解放できて、整理がついて、色んな世界や価値観を見て、その自分をベースに打ちひしがれながらも、躓きながらもいろんな経験をして生き難いとはあまり思わなくなった。
社会不適応者な部分もあるけど、私なりに、独自の生き方をしてる。
言えることは、世界は広いから自分の価値観や世界は狭くて色んな世界がある。でも、飛び出すにも、勇気が必要でリスクはある。
その勇気とリスクは、自己肯定感が強まったら、経験と共に徐々に身に付いてくる気がする。
自己肯定感は感情解放が進むと徐々に身に付いてくる。
だから、感情解放が大事。
私はそう思ってる。