ちょっと、気になることがあって、経緯のメモ的に、ここに書いておこうと思う。
なんでか、わたしの魂は、結構長い年月、平家のことが気になって、やっとなんとなく動き始めた、と思ってたんだけど、ちょっと、また違うというか、そこから次の扉が開いたというか・・・。
この記事を書いた翌日の朝。
家族というか、きょうだいとかとの、まぁ、嫌な事を思い出して、すごく、気分が、悪いのよ・・・。
この数年やってるのことは、寝て、目が覚めた時に色々考えるというか、ふっと浮かんできた事を考えるの。
この日は、すごく嫌というか、重い気持ちになって・・・。あ、なんか一つ想いを遂げた感もあるし、死ぬのも一歩近づいたのかかしら・・・。終活のこと、ちょっとやらなきゃって、門司の和布刈神社に散骨を生前で申し込んでる。その書類や神社の書類や終活のノートを広げて、書き込めるところを書き込んでた。
どんなに微妙な関係だったとしても、わたしが死んだら、第3親等までの誰かしか、わたしの死後のこと、手続きとかができない。
とりあえず、銀行に預金がほとんどなくても、どこに口座があるか書いておけば、そこを閉じれば、クレジットカードも止まるかなとか。
それと、弟の連絡先や、住所を書いた。
で、何気に、神社のパンフレットをみてたら、今まであまり気になっていなかった部分にハッと目が止まったの。
和布刈神社のサイトにもあるんだけど、由緒にある「神功皇后」とその後にある「御神宝」の「満珠干珠」。この神社は1800年以上の歴史があって、瀬織津姫が御神祭。神道の祝詞で大祓祝詞というのがあって、そこに出てくるから、祝詞の蛇腹みたいなのを出してきて、改めて大祓祝詞をじっくり読んでみた。
壇ノ浦の戦いは、平家が九州の門司側の田ノ浦という所が陣になったの。源氏方は、本州の下関の調布の沖にある満珠干珠と言う二つの島。
まずは、この島が見えるところに・・・と、その日の午後に長府へ。
豊功神社という神社がこの島を見る展望台のような感じ。
この島は、聖域らしく、下関の忌宮神社の飛地境内らしい。
色々、書きたいことはいっぱいだけど、情報多すぎて、混乱してるから、メモ的に書いとく。
この後、忌宮神社に。
神功皇后は、八幡神社の八幡さま、応神天皇のお母様らしい。
この日は、宝物殿が閉まっていたから、数日後にもう一回行くことにした。その前に、住吉神社に行くことにした。
下関の住吉神社は、一ノ宮で、日本の三大住吉神社らしい。この神社も、神功皇后とゆかりが深い。
この辺りで、ふと、気になり始めたのが、私たち・・・日本人は、自分の国の歴史を知らない。神社がなんだか、よく分かってないし、お祀りされてる神様が誰だとかも知らない。日本神話にしても、わたしの世代だと、せいぜい、八岐大蛇の素戔嗚尊の話や、天岩戸に隠れた天照大神、大国主の因幡の白兎かな・・・。
なんでこんなことになってるんだろ・・・。
あ・・・明治維新?
で、今朝、猫にまたしても3時に起こされ、ちょっと苛立ちながら、この前忌宮神社にあった「ミュージアムでかけガイドINやまぐち」というのをみてたら、
田布施町郷土館と伊藤公資料館というのが、並んでた。伊藤公資料館は光市という所にあるらしく、地図を見た。すぐ近くね。この、田布施は、近年色々言われてるところ。
伊藤博文をチラッと検索してみる。
春帆楼・・・日清講和会議・・・
春帆楼が建てられた場所は、阿弥陀寺の方丈。阿弥陀寺は赤間神宮のもとで、そこには安徳天皇陵があり、平家一門のお墓みたいなのがあるの。明治の神仏分離令で廃寺になるの、その後、天皇社となって、赤間宮となって、赤間神宮になるの。阿弥陀寺は元々は、尼寺だったらしい。初代の住持は安徳天皇の乳母の少将局が髪を下ろしてお仕えしたらしい。御陵とお墓は、阿弥陀寺の頃のもの。
この、春帆楼という料亭が建っているところが阿弥陀寺の方丈だったの。で、春帆楼の横に、日清講和会議記念館が1937年にできるんだけど、その時に、その場所を掘っていたら硬い石があって、そこに阿弥陀寺の歴代住職の墓石群が出てきたらしい。
だから、赤間神宮は、新しい。んだけど、そもそも、この神仏分離令は、一体何よ。。。って、改めて思ったの。そこから、日本人の何か、奥の核みたいなのが、崩れるというか、解らなくなってるかもと。旧暦から西暦になったのも、明治。
春帆楼は伊藤博文が作らせたとか。
伊藤博文・・・何者?
今気になって、赤間神宮の歩みを聞く会の資料を見ていたら、
南野一郎という人。
文久2年4月 35歳。福田侠平34歳。白石正一郎51歳。
文久3年6月 高杉晋作が奇兵隊を結成
8月 福田と共に阿弥陀寺の本営に入る
明治9年3月 赤間宮権宮司を拝命。初代宮司笠原頼十郎と共に社殿造営を政府に出願
明治10年12月12日 白石正一郎宮司拝命
ここに出てくる人たちみんな奇兵隊に入ってるみたいなの。
下関では白石正一郎という人は有名みたいで、商人で、彼が高杉晋作たちをバックアップしていた人で、明治維新の立役者。
で、今回もう1人気になる人が。
伊藤助太夫。Wikiによると、
「長府藩赤間関の大年寄であり、大名に宿舎を提供する東の本陣伊藤家の当主であった。諱は盛正、号は自然居士、静斎。
下関を代表する豪商であり、幕末の攘夷志士らを様々な側面から支援した。特に志士の代表とも言える坂本龍馬との関係は深いものであった。伊藤邸は慶応元年(1865年)の初対面以来、龍馬の止宿先であった。邸は広く、高杉晋作らが結成した奇兵隊も一時、邸内にある阿弥陀寺(赤間神宮)に本陣を移したこともある。」
阿弥陀寺が邸内。で、南野一郎が「8月 福田と共に阿弥陀寺の本営に入る」というのが、合点がいく。
で、田布施に戻るんだけど、安倍晋三の母方のお祖父さん、岸信介は佐藤栄作のお兄さん。岸信介は山口市で生まれてるけど、ご両親の本籍は田布施で、佐藤栄作は田布施で生まれてるみたい。
Wikiによると、2人の曽祖父は、佐藤信寛と言って、1816年に田布施町で生まれてで、明治33年(1900年)に亡くなってる長州藩藩士。明倫館に入ってるみたい。で、吉田松陰に兵要録を授けた、らしい。兵要録ってなんだろ。
吉田松陰は1830年生まれみたいだから、佐藤信寛さんの方が、年上ね。
井上馨や伊藤博文、木戸孝允らとも親交があったらしい。
「本姓は源氏。清和天皇の第六皇子貞純親王を祖とする清和源氏であり河内源氏の始祖である源頼信の系譜である。頼信の孫である源義家は武神と称され、源頼朝や足利尊氏の祖に当たる。土着した土地名から井上姓を名乗るようになった。」
清和源氏って、自民党の清和会の名前と関係はないのかしら?
この井上さん、伊藤博文の第一次、第二次、第三次、とかなり重要なポスト。
木戸さんは、桂小五郎っていうのね。なんか聞いたことある。
まだ、何が正しくて、違ってるとか、どう関連があるのかとか、解らないけど、色々繋がってる気もするの。
とりあえず、今、こんなふうなことが気になったと、記録として書かせておいてください。
後から、何かが繋がって、意味がわかるかもしれないとか。そのためにも、いつ、何に気づいたかとか、そういうのを書いておくことが大事とかだったりするのよ。
こんなことが、大事なことなのか。なんだけど、多分、今の日本人として、自分たちのルーツ、歴史、どうしてこうなったのかを知る、そして解いて、再構築するのにとっても大切な気がする。
この先、このテーマが続くのか、ここで終わるのか。
それも、宇宙におかませです。必要があれば、情報がふっと降りてくると思う。