あと、10日でS井さんが引越す。

一昨日、S井さんは野良猫たちの餌やりを終えた。

私は、うちリラ星人にだけに餌をあげて、どうやって捕獲をするか頭を悩ませてる。S井さんの家から私の家までは100mくらいあって、今日はうちの庭まで来て餌を食べてくれた。だけど、この辺りはあまり来なかったというか、見た事は無いので、警戒してる。うちの周りを縄張りにしている猫が、リラににらみを利かす。

おとなしいリラが「シャーッ」って言った。

昨日、S井さんが猫に使っていた餌を入れるお皿をくれた。いっぱいあるらしく、一応もらっておいた。今朝、それを洗いながら、色んなことを考えた。多分感じたのだと思う。

ダイソーのお皿。S井さんは嬉しそうに、餌をあげてたんだと感じた。きっと、買ってきたときも、嬉しかったのだと思う。そんなに古くなってなかったから、ご主人が亡くなってからか、ご主人が寝たきりの時か、どちらにせよ、買ってきたのは奥さんだと思う。

モノには、想いや、想念がしみこんでいく・・・。

毎日、朝と夕方に餌をあげる。その時の嬉しさと、喜びと、「しょうがないわね」という感じと。自分が必要とされてるような感じ。生きている命に食べ物を与える・・・役割・・・使命?そう感じられると、生きていると感じる。喜び・・・。

そういえば、町内のIさん。80代。ある一匹の猫に餌をあげている。避妊をして、耳をさくらに切って、地域猫にしますから、と、町内会長さんに伝えたらしい。

この前、入院した時、猫の餌が心配だったらしい。「私がいないと」と。役割、責任を持つことは、生きる力にエネルギーを与えるのかもしれない。

人間より、猫の方が強くてたくましいのかも知れないと思った。

猫はどこまで、何を感じて、どう思ってるのか知らないけど、猫を求めたり、猫に救われているのは、人間の方かもしれない。かわいそうだからって、餌をあたえてるんじゃなくて、猫のお陰で、救われてるというか。

誰かを助けたり、救ったりって、簡単じゃない。多くの場合は、よくよく考えると、救われたかったり、助けられたいのは、「救っている」「助けている」と思っている、思わせてもらえている側なのかもしれないと、改めて思った。

 

「リラが病気しても病院には連れて行けないし、逃げたら、それが寿命だと思って欲しい。」

S井さんにそう伝えた。S井さんはそれでいいと言った。

リラは私と暮らすことになる。助けたり、救ったり、世話をしたり、とかじゃない。ただ、成り行きと、なんかの縁で、なんだろうね、人生の時を過ごす。

ペットというより、同居人。

私も学ぶことや気づくことがいっぱいあるのだと思う。


ウチのリラ星人、今日やっと、ウチの家の庭まで来てくれた。すごく警戒してた。で、その後、ウチの庭によく来る猫に威嚇されてた。