毎日、なんだか、いろんなことが、頭の中というか、起きてて、今日も、記録というか、メモ的な記事です。

書くことで、整理もできるしね。よろしくお願いします。

最近は、神功皇后にゆかりのある神社によく行っています。

いろんなことが繋がっているような気がして・・・何をどう書いたらいいのか・・・。

友人の写真家が能楽師を招いてのトークイベントを行うと知って、動き出すの。この記事は、平家の物語のサイトです。

で、甲宗八幡宮。

その後、神社じゃないけど、山鹿秀遠を訪ねて、福岡県の遠賀に。山鹿さんは、壇ノ浦の戦いで平家側の1陣を率いた。これも平家のサイトね。

でね、ちょっとメモ的な鍵かもな。こと。壇ノ浦の戦いの時には平知盛の陣、山鹿秀遠の陣、それと、長崎の平戸の「松浦」の陣があったみたい。ちょっとちょこちょこ陣が他にも出てくるけど、大きくは、この3つの陣みたい。ちょこちょこの陣は、どこかの陣に混ざってるのかもね。ここの部分、今回の話につながるので、頭に留めてて。

ああああ、長くなりそう・・・。頑張って書こう。

で、こんな感じで続いていくんです。

平家の事が基軸なんだけど、壇ノ浦の戦いの舞台の関門海峡で、いろんな事がつながるっぽいんです。

  • 1800年くらい前の神功皇后の三韓征伐。
  • 源平の壇ノ浦の戦い
  • 明治維新

それがなんなんだか、ただの勘違いなのか・・・。でも、気になるんです。だから進むんです。

それでね、住吉三神と綿津見の三神は違うのか?同じなのか・・・と、検索をしてたんです。本当にね、歴史って、何が本当で、何が嘘か、都合よく誰かにつくられたのか、何が何だか、よく解らない事だらけなんです。

そもそも、住吉三神も綿津見の三神も、最近知ったばかり。頭ぐちゃぐちゃなんだけど、気になって仕方ないので、調べてみてたんです。綿津見の神様の大元は、福岡県の志賀島の志賀海神社のようです。

すると、「わたつみ」という能の作品が出てきたんです。この作品は、志賀海神社に伝わるお話から作られた復曲能というものらしく、片山伸吾さんという観世流という流派の能楽師さんが、やっているそうなんです。(片山伸吾さんのサイト

彼のサイトに「わたつみ日記」というのがありました。

【復曲能『わたつみ』とは」】からちょっと引用させていただきます。


古代に多くの足跡を遺す神社ですが、16世紀末には豊臣秀吉からも寄進を受けています。この曲はその前後に恐らく作られたと推察できます。この能の前シテである阿曇知家は当時の宮司であり、同じく前ツレとして登場する矢田部知長は権宮司、宮本知義は禰宜であることから、この三人が作者と考えても無理はないでしょう。

ただし現在神社にはこの曲の上演記録や能としての型附は残っておらず、謡曲のみが社人さんによって謳い継がれていました。近年になり、神社は幾度と「能」としての「わたつみ」復活を試みてこられましたが、なかなか成就せず、私がおよそ十年ほど前に御縁を頂戴し、すべての環境が整った結果、四年越しで復曲することができました。2017年9月17日、志賀海神社本殿にて舞囃子として奉納、翌18日には大濠公園能楽堂にて初上演致しました。翌年には私自身の催しにて京都初上演、そしてこの度東京での初上演となりました。


片山伸吾さんは、お父様も能楽師だったようで、叔父様は人間国宝の能楽師だったそうなので、京都の方だと思います。

それでね、私が引っかかったのは。【松浦某について】という記事。またちょっと引用させて頂きます。


『わたつみ』にはまず『松浦某(まつらのなにがし)』という男が登場します。彼は夢の中に『志賀大明神』が現れたことから、思い立って志賀島を目指してやって来ます。


この松浦某さんは、壇ノ浦の戦いの平戸の松浦さんの子孫ではないでしょうか!

で気になって調べてみると、鎌倉時代の元寇。眠り姫だった私も、この絵は覚えています。

この時、松浦史料博物館のサイトによると、松浦党が出ていき、たくさんの命を失ったとか。で、鎌倉時代も松浦さんは平戸にいるんですよ。

ちなみに、山鹿秀遠さんは消息不明というか。原田種直さんは、鎌倉に連れて行かれてるみたい。

ネットでウロウロ調べてると、壇ノ浦の戦いの途中で引き上げたとか。いう、話もある。

それで、松浦さんが気になり、調べてたんですよ。

すると、こんな記事を見つけました。佐賀県の唐津にある 「洋々閣」という100年以上の歴史のある旅館の女将のブログのようです。

「ただ春の夜の夢のごとし―壇ノ浦の松浦党―」

この記事のこの部分が気になりました。


『吾妻鏡』にも赤間関壇ノ浦海上で山鹿秀遠、松浦党などが平家の主力となって、源氏に戦いを挑んだと記している。源氏の兵船は大小三千余艘といわれ、その中には熊野水軍、伊予水軍があり、平家方には松浦水軍、宗像水軍、阿波水軍があり、当時日本を代表する東西水軍の対決の観があった。
しかし、阿波水軍の裏切り、平家方の情報の洩れ、総大将宗盛の作戦上の失敗などにより、平氏一族郎党は文字通り西海の藻くずとなってしまった。さすがの松浦党も海戦途中で戦線離脱し、唐津へ引揚げてしまったのである。そして次にくるのは、敵方平氏に味方した九州の武士達への徹底的な処罰であることは歴史の原則であった。


宗像水軍というのがあったようです。

宗像といえば、宗像3女神。宗像大社。ここもやはり、海の神様。

宗像は出光の創業者出光佐三さんの出身地で、佐三さんは宗像大社の復興や調査に尽力してくださった方で今の宗像大社があるのは出光さんのおかげだそうです。

ぐるっと戻って、

甲宗八幡宮は出光佐三さんがすごく尽力してくださった神社で、立派な能舞台があります。

で、「宗像水軍 壇ノ浦の戦い」で検査をしていると、こんな記事を見つけました。

安倍宗任の菩提寺・安昌院(宗像・大島)を訪ねて

この、安倍さんは、もともと東北みたいなのですが、配流というのが何度もあり、宗像に来るみたいなんです。サイトから引用させていただいます。


▼ 筑前大島への再配流
さて、宗任は伊予に3年間居留したが、少しずつ勢力を固め、再び本国へ逃げる恐れがあるとして、さらに豊後国宇佐郡(大分)へ、そして筑前国宗像郡の筑前大島(福岡)へと再配流された。すなわち、冶暦三年(1067年)、朝廷は宗任を九州大宰府の管内に再配流することにし、孤島で、しかも大宰府に近く、監視の効く国司や郡司のいる所として、また宗像大宮司家の管領でもある所として、筑前大島を配流地に選んだのである。一方、妻のおないの方は三人の娘を連れて東北の遠野に逃げ延びたという(「エミシの国の女神」菊池展明)。

宗任は、家臣の豊福、万沢、板矢、屋形や、実子の長男・宗良16歳、二男・仲任14歳、三男・季任12歳らと共に、大島西海岸の湊尻から上陸した。その後、宗任は、宗像氏の下で、日朝・日宋貿易において重要な役割を果たし、この地に根付き、肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとされている。

(中略)

子孫・松浦高俊は、宗任から5世にあたるが、平家の武将・平清盛の側近となり、源平の海戦で、平氏方の水軍として壇ノ浦で戦い、破れて山口県大津郡(長門市)油谷町に配流された。その地で妻を娶り、土着し、娘を産んだ。娘は長じて平知盛の庶子であるという平智貞に嫁したが、源氏の迫害から逃れるために、安倍の姓を名乗ったという。(ただし平家の家系図には平知貞という人物は存在せず、詳細は不明)。この安倍一族が、戦前の衆院議員・安倍寛氏、元外務大臣・安倍晋太郎氏や総理大臣・安倍晋三氏のルーツであるという。晋太郎氏や晋三氏は自らを安倍宗任の末裔と公言されているが、その詳細は不明である。


実は、7月8日、安倍晋三さんの3回忌に、長門でちょっと気になるイベントがあるということで、行ってきたんです。その時に、お墓ってどこにあるんだろ・・・って調べて、お墓に行ってみたんです。

安倍家の先祖代々みたいなお墓もありました。

なんで、こんな、な〜んにもないような、油谷というところに?と不思議に思って帰ってきました。

まだまだ、何がどう繋がっていくのかは、わからず。捜査中なのですが、このひと月・・・すごく色々あった感じです。