「穴門」?
数日前に、落ちてきた、言葉
ここ、下関は、昔は「穴門」(アナト)といい、その後「長門」(ナガト)になるの。
穴門・・・穴門・・・と検索していたら、下関市立考古博物館で
開館30周年記念特別展「上の山古墳と穴門の趨勢-本州最西端の後期古墳と集落-」
というのをやっていると知り、週末は14時から学芸員が案内してくれるとあり、ちょうど土曜日だったので行ってきた。
今回の記事は、「何がいいたいの?」という感じの記事ですが、数日後にこの「点」がつながるので、書いておきます。

古墳???古墳時代???
弥生時代の後が古墳時代だそうです。勉強しなかった私は、知りませんでした。
紀元前10000年から紀元前300年辺りが、縄文時代
〜紀元後300年辺りが、弥生時代
〜紀元後600年辺りが、古墳時代

「穴門」の地名は、草新瀬背(関門海峡)の頭屋な地形に由来するとみられ、史料に頻出する「豊浦」の地名も響灘沿岸域が港湾機能に優れた環境を備えていたことを示唆します。こうした点から、下関市域を穴門国造の領域とみなすことに無理はなく、とりわけその中枢域は古墳時代後期の前方後円墳が分布する市域南部と考えることができます。
「穴門(戸)」という地名は、『日本書紀』垂仁天皇2年の記録に初めて登場します。
ちなみに、神功皇后は仲哀天皇の奥さんなので、古墳時代です。
なので、仲哀天皇と神功皇后が下関(豊浦)にいた頃は、古墳時代で穴門です。で、
「長門」という地名の初出は『日本書紀』継体天皇 21年(527)8月条にみえますが、当時はまだ国名として定着していません。国名としての「長門」が初めて登場するのは、天智天皇4年(665)8月条の「築城於長門国」で、この頃に地名が固有の国名として認識されたようです。
次は、もう一つの落ちてきたキーワード「巌流島」です。