いつからか、そんな努力はしなくなった。

私は、思っている事は結構はっきり言う。共感できない事は共感しないし、共感を求められると私はどう考えるか、感じるか、私の考えを言う。「友達なんだから共感して欲しい」と、言われる事もあった。でも、共感しない事に共感するのは、難しかった。

20代の頃、私は、単純で素直だったと思う。
年上の人達が偉そうに言う事、説教してくれる事も嫌いじゃなかった。自分より強い考えを持って居る人、頭がいいと感じる人の言う事をたくさん受け入れた。自分をあまり持ってなかったと思う。だから周りの意見に振り回された。いつも適当に親しい友人が居た。自分を持たない事で受け入れられる部分もあったと思う。でも、これは、ニューヨークでの事。日本以外の国に住んだ事が無い人と、外国に住む人、もしくは住んだ事がある人は、多分違う人種になっていたりする。日系人と日本人も違う。外人と日本人も違う。もちろん、それらからいろんなバラエティがある。

私は、自分をあまり解ってない、他者に答えを求めるような依存系の人であった。年上に、可愛がられたと思う。

私は好かれる為に、媚を売るような性格もあったと思う。なんでもスポンジのように吸い込む私だった。人や他人の価値観に合わせていると、どんどん自分が解らなくなっていった。時々客観的に自分を観察して分析してみると、すごく怖くなった。

意識的に、自分はどう思うのか、考えるようにするようになった。世界中でたった一人しか居ない、私、という人間が、生きてきた環境と経験から、どう感じて、どう考えるか、それは、誰と同じじゃなくてもいいし、考え方や視点が似ている人はいても同じな訳がない。

私は人から好かれる努力は殆どしなくなった。でも、自分らしくありたいという事にはすごく努力する(これ、努力が必要なんです)。私は誰からも好かれてないと思う。でも、私を好きだと思ってくれてる人は、確実にいる。彼女たちは結構正直で不器用な私が好きなんだという。

自分が自分らしくあれば、私のイタイ所を含め、私を好きになってくれる人達が世の中には、日本中には、世界中には居るんだと知った。嫌いだと思う人と好きだと思う人の割合が7:3位でいいんじゃないかな。とか、思う。(どうでもいい、というのは、この割合では除外)

私の事を好きになるのも、嫌いになるのも、その人の自由意思で、私にコントロールできる事ではないと思うの。

みんなに、好かれても、私はみんなを相手できるだけのキャパも余裕もないしね。私を難解動物と扱っている人達や敵も多い中、私を好きだと言ってくれる人達が居るから、自分が自分らしく、わがままに生きていられてる事も知ってる。それ程、私は強くないしね。凄く感謝してる。