世の中には、「自分軸な人」と、「他人軸な人」が居ると思う。
「自分軸な人」は
人が言う事や、耳に入った情報をそれなりに調べ、もしくは体験し、自分のフィルターを通して考えて、処理したり、発したりする。おかしいなと思ったら疑いの目を持って考える。
「他人軸な人」は、
人が言う事や、情報を鵜呑みにする。自分の考えより、自分より強い人や経験豊富と思われる人の考えの方を信じる。楽しそうな事や良さそうな事を素直に信じたり、流されたりし易い。
私が感じているのは、幼少時にしっかり尊重されて、自分の考えや意見を発言出来、一緒に考えてもらったり出来た人は、自分軸でありながらも視野や幅の広さを感じる。でもそういう幼少時と青年期を過ごせる人は、特に私達の世代にはあまり多いとは思わない。
あと、自分軸な人でよくあるのが、言っている事をよくよく考えたり調べたら、実はかなりおかしいんだど、絶対的な自信をも持っている、何の根拠もなくても信じ切れる「自分軸な人」。そういう人は「一緒に考える」という作業が抜けていながらも、親から「存在」をしっかり肯定されて育ったんじゃないかとも思う。
こういったテーマは、結構深いし、色んなパターンがあるから、浅く中途半端になっちゃうけど、ちょっと書きます。
他人軸な人は、私達の世代には多い気がする。
その理由は、昔は情報源も少なく、考える際に必要な比較対象となる情報が限られていた。家庭環境でも尊重をされずに育った人や、否定されてきた人、納得いかない事を一緒に考えたり、解るように説明してもらえなかった人はいつの間にか、「自分」が考える事や「自分」という存在に敗北感を持ってしまうというか。また力ある者に従ったり、長いものに巻かれる様な、そうやって生きる事が、生きやすい時代だったとも思う。
以前、「それ、よくよく、考えてみて、おかしいわよ」と言ったら、「え?だって、楽しそうだし、考えたくないもん。考えない方が楽じゃん」という人がいた。
「他人軸な人」の中には、考える事が得意ではない、考える事が好きではない、考えたくない、という人達が多い、という現実がある気がする。
「他人軸な人」が考えない人なのかというと、かなり語弊があるかもしれないけど、他人軸な人は自分軸で考える事が難しい人達なのではないかと思う。そう言う人達は、自分という人を尊重して、自分を軸にして考える方法を育って行く途中で、育まれなかったり、潰されたり、見失ったり、放棄したり、劣化してしまった人達なんじゃないかと、思う事がある。でもそう言う人達にとって、正しかろうが、間違っていようが、何かを示してくれる人達はありがたい存在なのかもしれない。
人々をマーケットに取り込んでいくには「自分軸な人」が「他人軸な人」に影響を与えて行く事で成り立つ部分も多いと思う。どんどん消費をさせていく事も、貧しさから豊かさを目指した時代に合っていた価値観だとも思う。それも洗脳的な手法かもしれないけど、世の中多くの事は情報操作と洗脳で成り立っている気もする。
もちろん、私も、知らない事だらけで、いつも新しい出来事や、世界を見て、混乱したりするし、ほんとに、ほんとに、世界は知らない事だらけ。その中で、自分の経験や知識がリソースとなり考える際に使うデータとなる。だから経験や知識は多い方いいとは思う。そして、これは、なんだろう?どういうこと?え?、と、どんどん、疑問に思い考えて欲しい。
自分軸で考える事は、すごく楽しいし、エキサイティングな事だと、私は思う。
私が時々、すんごい、すんごい考え込んでいるので「病気になるよ」とか言って勝手に心配する人も居る。
真剣に突き詰めて考えたいと思うと、人間や世界に沢山の矛盾や理不尽さがある事に気付く。
それに気付く事も面白い。
そんな私も、私自身が、否定的に、考えや意見を尊重されずに育った中で、自分の考えや、自分自身に敗北感を持ち、考える事が劣化してしまった人だったとも思う。「考える自由」を挫かれた人だったと思う。
遅咲的な考える人となった私ですが、考える事って、訓練で変わってくると思う。私の場合は、時々頭の中がピキピキするっ。今までと違う脳を使ってその回路が鍛えられるというか。ひーひー言う事もよくある。
考えれば、考えるほど、疑問にぶつかり、その打開策を探す。沢山の事を調べる。そして色んな事をシュミレートしながら考える。
結局答えが出なかった。という事になっても、そうやって自分の頭で考えた事は「経験」になるのだと思う。
最近、いつも言うが、時代がすごい速さで変わっている。
知りたい事を調べたり追求しやすい時代と環境に入って来たと思う。
言い換えれば、過多な情報と、価値観やライフスタイルの多様化が身近になり、自分で考えないと生き難い時代になって来たと思う。
そういう時代の流れの中で、「考えられない人」はある意味での弱者になる様な気もする。