先日ふと思い出した。
アタシ。32歳の時、28歳と偽って池袋でキャバ嬢やってたな~と。
水商売、年を偽るのは当たり前で、
面接や初出勤で店側に歳を決められたりするの。
当時、池袋に住んでいて、
初めは銀座に行ってたけど、
銀座は12時に終わる、
池袋のキャバは3時とか4時だったかな~。
で、時給もいいし、衣装も厳しくないし、時間も長いからお金になる。
とにかくアジア放浪の旅に出たかったし、
お金がいる~~~~、
キャバクラと言っても、色々あるらしく
ラウンジ系というのだったから変なところじゃないんだけど、
会話についていけなかったわ。
それでも、私の心はアジアに飛んでた。
それしか頭に無かった。
お陰でほんの3~4ヶ月で数十万溜めて、
アジアへ数ヶ月。
私が20代の殆んどをホステスで暮らしてきて、
夢を追っかけていたのはみんな知っているかも。
初めて水商売に入ったのは、
18歳の時にスナック。
家出をしてお金が無かったの。
で、友達がスナッピー(Seina語でスナックのお姉ちゃん)をしていたので
彼女に紹介してもらい夜の世界へ
2件目のお店で、
ママの紹介で、19歳の時に、うっかりアメリカに行く事になって
何も解らずNYへ。
ロングアイランドというマンハッタンから車で1~2時間のところの
レストランのウェートレスだったんだけど、
色んなトラブルがあり・・・
たまたま知り合った歌をやってるおじさんが
日本に帰るな!というので意味解らず、そうしようかと。
日本へ帰ると思っていたレストランのオーナーは
それを知って何故か激怒し、
「今日中に出て行け!」と。
たまたま知り合った日本人の方に電話をして荷物を預かってもらい、
その日の夜中に荷物を纏めて出て行きました。
マンハッタンの右も左も解らず。
夜中にウエスト45丁目につきました。
数日そのおじさんの家にお世話になり、
歌のレッスンなどをやりながら、
おじさんが日本人のカラオケバーを紹介してくれました。
そしてまたスナッピーになりました。
住居もそのお店のオーナーの家に住まわせてもらいました。
数ヵ月後ビザの事もあるし、日本に帰って
その頃はソウルをかけるバーでバイトをしました。
朝の4時とか5時まで。
その後、やっぱりまたNYにでも、と思い、
スナッピーに戻り、お金をためてNYへ。
NYに戻ったら、またすぐにスナッピーに。
その店も朝の3時まで。
その後、ちょいとランクを上げたカラオケ屋に。
その後、また日本で歌を歌いながらクラブのホステス。
↑とっても運が良かったのね。
お金が溜まれば、その後、またNYへ。
で、ホステス。
で、日本に帰って、またホステス。
ホステスという仕事は好きじゃなかった。全く。
ちょっと蔑まれる事もあったし、
私が持っている価値観とは全く違うし、
よく泣いたし悩んだ。
決して美人でもないから大変だったけど、
ぐちゃぐちゃの不細工でもなかったから
何とか仕事にありつけた。(親に感謝)
性格もホステス向きじゃないから大変だった。
だから雇ってくれたオーナー達に感謝。
特に小倉のお店は NY⇔小倉 の足かけ7年くらい?お世話になったの。
本当に大嫌いだったホステスの仕事、
夢が叶った時に、本当に感謝できた。
世間ではあまりいい印象は無い仕事だけど、
私の夢が叶ったのはホステスという仕事があったからだと思うの。
私はソウルバー、ショットバー(NYのビレッジで)、スナック、ラウンジ、
クラブ、ミニクラブ、ピアノバー、キャバクラと
ありとあらゆるお酒やサンやってきてしまった。(絶対不向きなのに)
夢や情熱があれば、
何の仕事でも出来るんだと、思うの。
それが無くなった時
骨が抜けたようにヘロヘロになった。
生きる活力が解らなくなったり。
意味が解らなくなって、
何かと意味づけをしてみたり、
で、インチャがかなり深く残っていてそれと戦ったり。
心の中心に感じるパッション?
それがまた感じられる様になったのは、
4回のニューロの後だった。の。よ。
色んな思い込みを外していった気がする。
もうホステスなんて出来ない私になったけど、
もっかい私だけの目標に私なりに向かってる。
そんな中でたまたま始めたヤングリヴィングのネットワークビジネス、
これで頑張れたら、また老人ホームで歌える。かも。
私が老人ホームで歌いたくても、
「凄いね~」「すばらしいね~」と人はいっても、
出来上がったきれい事や、
メディアに取り上げられて、それに便乗する人は居ても、
誰もお金は出してくれない。銀座以降に解ったの。
心の中に感じるパッションが
粉々だったのに、
今はとりあえず、しっかり感じられる。
そういう、ああいう意味で
私はオイルに出会ってよかったって思う。
(そうだ、これも精油日記にしておこう。)
インチャの事も書きたいけど
長くなったので、今回はこの辺で。