数日前、ある人と話しててた。
「HさんってHさんの濃度が高いよね」と私が言った。
ピンと来てない彼女。
「なんていうんだろ、その人の中に、ちゃんとHさんが居るんだよ。その人の型の中というか。例えばさ、他人に影響されたり、迎合する人って、なんていうか、その人の濃度が薄いというか。影が薄いというか。」
「私、頑固だから」
「頑固って悪いと思わない。特に、若い頃は。そうしないと護れないものがあったりする気がするんだよね。私はさ、色んなものと戦ってきたと思う。特に家族。護るって、戦う事だと思うんだ。もし戦わなかったから、「私」は殺されてたと思う。私の心ね。今の私が居るのは、戦ってきたからだと思う。そうしないとあの濁流の家族の中で「自分」を護れなかった。」
私たちの世代は、自分を殺して周りや社会に合わせることが良いとされた。そういう人達は、それがいいと思って自分で自分を殺す事を努力してきたと思う。
肯定的に育てられた人たちは、否定的な事を言われたり、人と意見や考えが合わなかったら、「違うんだ」と思うとかもだけど、否定的に育てられた場合は、そういった事が攻撃されていると感じてしまう。とっさに攻撃的な口調になったりする事もある。「あ、護ってるんだ」って思う。
Hさんは学生時代に鬱になったと言った。
「自分(の心)が殺される」という危機的な状態が彼女を鬱にしたんだじゃないかとも思う。
否定されて育った人は、自分の中にあるはずの軸が弱い。というか、砕けている。自己肯定感のある人は強いと思う。自己否定感があると弱いし不安定。特に学生時などは親などに生活を保護というか、管理されている場合も多いので、自分で環境を変えたり、選ぶことは難しいと思う。
だから、Hさんが学生時代に鬱になったことは「自分」が瀕死状態で、でも、「自分」が「生きたい」とギリギリの所でもがいていたり、苦しんでいた状態だったかのかもしれないとか。考えてみた。
自分という型の中にしっかり自分が居るひと。
そんな人は、自分の感覚を信じて、自分で選択する力がある人な気がする。なんで彼女に連絡をしたかというと、6年くらい前に彼女が言ったある事に対する感覚がかなり的を得ていたと認めざる得ないかもと思ったから。でも、そんな事を感じていた(気づいていた)彼女は、多くの人の中で孤立していた気分になっていたかもしれない。
彼女も、若い頃には(多分40歳位まで)、かなりもがいて、戦ってきた人だと思う。
で、彼女の中の「自分」は勝ったんだと思う。
戦わなくていいのなら戦いたくないけど、戦わないと殺されてしまう。
自己否定感のある人は、そうやって戦う事で「自分」を殺されないように護る。庇護が必要な時期に親か家族に心を守ってもらえなかった人たちはそうやってもがいて戦って「自分」を護る。
自分の中にあるうっすらとした弱弱しい自分を手繰り寄せてて、しがみついて、自分と戦いながら、周りとも戦いながら、自分をクリスタライズ(結晶化)する。
最初は小さくてすぐに壊れそうな結晶だけど「自分」が負けなかったら、戦い続けたら、その結晶は少しずつ大きくなる。
周りに合わせる為に、自ら、「自分(の心)を殺す」なんてやってると生きている意味が解らなくなって当然だと思う。だって死んでるんですもの。そういう人達は、濃度が薄いというか。その人の中にその人が見えないんだ。