30歳の頃。アメリカの老人ホームのプロジェクトをし終わった頃。
いつもおかしな子だと扱われて、少し馬鹿にされていた私が、色々な人に認めてもらえた。
周りは、ジャズ歌手として成功することを期待した。次にどんな「良い」プロジェクトをするのだろうとも期待した。
あの頃、「私は何がしたいんだろう」「何になりたいのだろう」と、考えた。
人々が考える歌手としての成功というか、そういうのはなんか違った。
私の中から出てきた答えは、「冒険家」だった。
山に登りたいわけじゃない。体力や筋力とかあまりないし、体も強くない。
「冒険家」のイメージと自分は違う。
だけど「冒険家」になりたいと、私の心は言った。
こんな記事を見た。
「冒険家になりたい」と思った、思っていた、今も思っている、漠然とした、よく解って無かった自分の中の「感覚」を納得させてくれた。
とても共感を覚えた。
彼曰く、
「豊かさ=経験のバリエーション」
「バリエーションに富んだ経験⇒冒険」。
「「冒険の末に手に入れたもの」ではなく「冒険の過程」こそが・・・」私は「宝」だと思ってる。
何かを成し遂げた。その「達成感」は素晴らしいし、かなり気持ちがいい。だけど、そこに辿り着くまでにある「経験」や「出会い」、「物語」の方が時間が経つと心の奥で輝く。
お金もなく、人脈もなかったかし、失うものもたいして無いから、泣きながら、必死だったから、出来た経験、出会えた人たち。
なーんにも大した「物」を持っていない私。だけどその人たちに出会えたことや、経験は私の中の「宝物」だと思う。
「達成」は「終業式」の様なもので、学生時代を思い出しても「終業式」や「卒業式」の想い出なんてあまりなく、想い出は卒業式にたどり着くまでの日々、「過程」の中にある。
最近は、家でお花を育てたり、コーヒー焙煎をしたり。
コーヒーなんてKALDIで買ってくればいいのだし、面倒な作業だけども、プロセスが面白い。その過程の中で、今まで考えもしなかった事を知る。コスパも凄いし、美味しいんですよん。まだまだ慣れなくて、毎回が挑戦で一喜一憂しています。それすらも私にとっては「冒険」。経験のバリエーションだったりする。
「暮らしの中の豊かさ」だと、ほんとに感じてる。
でもさ、泣いたり、悩んだり、苦しんだり。そういうのも時々欲しいね。そういうのが人生の醍醐味でもあると思う。
生きてるんだから、まだまだそういう事に突然ぶつかるんだろうね。でも今はなんだか穏やかっす。
旅も、きつかった経験ほど、後から、消化できた頃に「良い経験」だったと思えるようになるんだ。
みんな信じられないと思うけど、私は、子供の頃、遊園地で乗り物にも乗れないし、小動物(インコや猫)すら怖くて泣いてたし、大人になっても車の運転なんか絶対したくないと思っていた位、すんごい怖がりの泣き虫だったのです。
「冒険家になりたい」とこころが言って、20年。
私なりの「冒険家」として生きて来れたと思うな。
記事では「みんな寿命が来れば死ぬ」とあったけど、私は魂に経験(冒険)が刻まれて、死んでも持って行くんだろうな、と、思ってる。