私が今回、いくつかの事で、出会った問題。

私が日本になかなか住めない、特に地方都市、特に故郷の様なところ、に住むと問題が起こる理由はいくつかあるんだけど、その中で大きなのは、ハイコンテクストとダイバーシティ(多様性)。のようなことな気がするの。

ハイコンテクストは「コミュニケーションが価値観、感覚といったコンテクスト(文脈、背景)に大きく依存する文化」背景の事。

海外に長く住んでいたから、というより、もともとちょっと変わっていて、というか、感性や価値観がちょっと特有というか、だからこの国を何度も出て行った。そうしないと苦しいから逃げるんだよね。自分を殺さずに生きる為にそうせざる得ないという感じで追い込まれてしまってたの。

海外に居ると、私は、「外国人」で、違う見た目、違う歴史、違う認識、違う習慣、違う常識な世界から来た人だという前提で、その国の人たちは私に接っする。ニューヨークはいろんな国の人たちがいるからそういう人たちのひとりなんだけど、キューバでは、私のような人は誰一人いなくて、特に日本人と接したことがない人も多く、違う私を理解しようと一生懸命だったり、互いにとても違うからその中から共有できる感性や、共感が起こったりすると、嬉しかったり、それで親しくなれたり。

もちろん、ショーコは日本人だから、ショーコは外国人だから、と、理解できないだろうという事を前提に線を引かれることもあるんだけど、本当に違うからそれは仕方ないし、互いにそれを尊重し合うというか。

日本でとっても厄介なのは。特に故郷の様なところで、その街や、地域から出て暮らしたことがない人は、私が海外生活が長いというのは頭に在っても、どう違うか、何が違うかが解らない。見てきたこと、考えた事、困った事、経験したことが違い、私が違う考えや常識を持っている人たと理解が出来ない。よくよく考えたら理解できるかもしれないけど、同じ街で生まれ育った、見た目も日本人なので、自動的に同じと判断し、違うと感じたら、違和感になって、互いに付き合いがむつかしくなる。

昔から私を知っている友達は、「ショーコ」は別枠というか。自分たちとは違う、別者、異質な者として扱われてた。そこに、海外逃亡生活が長いというのが加わって、キューバから戻って来た時は、日本で自分を理解してくれる人はほぼ誰もいないと理解した。

だから、自分はどう考え、どうしたいのか、どう感じているのか、それ以外にないんだ。自分の選択を他者にゆだねる事は出来ない(どうでもいいものは、適当に)。

今回あった、いろんな出来事のいくつかは、私が違う、という事を理解されなかったから起こったことがいくつかあるの。私はローコンテクスト(ハイコンテクストの反対)の環境で暮らした経験もまぁまぁ長いので、ある程度はっきり伝えるし、NOを伝える。だけど、どうも彼らはNOを尊重する事が出来ない。違うという事を理解しないと、尊重は出来ないのかもしれないと感じた。

言葉では、多様性とか、ダイバーシティとか、簡単に言えるし、頭では解ったつもりになれる。だけど、解ったつもり程厄介な事はなく、「解らない」という事を理解するか、どうして自分は相手に対して違和感を持ってしまうのか、何が違うのか、どうして違うのか、をとことん考えて、自分の育った環境や、文化、宗教、家族関係を見つめ、自分を見つめ、自分こそが、とてもユニーク(無二)で、他者とは全く違う存在であるという事をに気づくことが大事だと思う。

そして、日本がいかに「特有」な文化、習慣、歴史、社会なのかを頭ではなく、経験を通じでがっつり理解出来た時、自分たちの文化内では共通で暗黙で理解できるものが多く、それが当たり前の環境で暮らしてきたため、自分の当たり前や、常識のフィルターで相手を判断したり、相手の言葉を判断したりしてしまう、というのを理解してほしいと思った。

私は、ほんとうに、言える範囲で、正直に、自分の状況を伝えたけど、不思議なくらいに相手は自分の都合や自分のフィルターでしか受け取らなかったの。

それは何だろうって考えたんだけど、ダイバーシティの理解(というより経験)と、日本はかなりハイコンテクストであるという特異性なのかもと。

でも、その、今までの当たり前のような、常識や価値観はこれから、全くもって当たり前じゃなくなると思うの。だけど、それは、ある意味、その人たちが信じてきた常識や価値観が壊れる。壊さなくちゃいけないという事なのかもしれない。

 

例えば、今までの自分の常識や価値観が崩れると・・・

人って、それまでの自分の価値観や常識が礎になって立てている事って結構あって、そこに正しさや、間違いの様な基準を持っていたりする。

自分が立てていたその価値観や常識が、「正しい」訳では無かったという事に出会うと、今までの自分の価値観を護ろうと、相手を否定したり、反発したりする。だけど、自分の価値観や常識がやっぱり、違うというか、無知な自分、ちっぽけな自分を思い知らされるとき、それを受け入れざるを得ない時、自分が壊れる。崩壊する。自分は何を信じて、どう立てばいいのか。

そんな経験をした。

最初の3つくらい(3回)は、崩壊して、ガクガクになるんだけど、そのうち、自分が無知で、ちっぽけで、いろんな人達、色んな世界、色んな価値観がある、世界は知らない事だらけだと理解すると、ガクガクになるほどの崩壊は起こらなくなる。

崩壊が起こると、再構築のプロセスが始まる。

再構築しないと、立てないからね。

再構築は、現実を知り、理解し、新しい価値観の礎を造る。一回り大きな自分になれるのだと思う。

 

私たちが子供の頃は、みんなが同じ番組を見て、同じ歌を聞いて、同じようなものを食べてた。

だけど、この20年位で、そういう共通の前提は無くなっていった。

私たちが子供の頃は、国民総中流とかいわれていたけど、それぞれの家庭の事情もかなり違ってきている。

私たちくらいから上の世代の価値観は、もう全く当たり前じゃなくなる。なくなってる。だけど、多くの大人は、自分の価値観を護ろうと無意識に抵抗する。それが自分の生きたことを護る事でもあると思っているかもしれない。

だけど、もう、価値観はすっかり変わる。はず。

世界中の情報や価値観が入ってくるし、みんな、違うものを読んで、聴いて、見ている。メディアを通じて電通や博報堂じゃないものが私たちの常識や価値観を作り替えていく・・・。

ハイコンテクストはもう通用しなくなると思う。もうそうなってきている。そのことを、大人たち、多分、45歳以上くらいからの人たちは理解した方がいい時代になってると思う。

今は、時代や価値観の変化への過渡期なのだと思う。

日本は高齢化した社会で、高齢者がマジョリティーになってしまう可能性がとても高いので、高齢な人たちや、私たち世代の考えがマジョリティーになるのかもしれない。特に、高齢化が進んでる地方は(東京や大阪の街中に行くと若い人がけっこう多いので驚く)。

だけど、それでは、生き残れない。世界的な経済とかもかもだけど、心が。

頭ではなく、崩壊するレベルで、価値観を壊して、新しい時代、次の世代が、生きやすい社会を作ってほしいと、とても思う。

このひとつき、とても、とても、苦しかった。

 

とはいえ、もう、わたしこそ、結構老人というか、初老ですからね。


写真が無いので、去年の6月のモノを使いました。