言葉というのはそれぞれにとって定義が違う。
そう。しっかり、自分で考えると、「大人になる」という定義は、それぞれにとって違う可能性もある。
「大人になりな」
と、若い頃、言われるたびに、とても違和感を覚えた
だいたいは、正直ではないというか。まぁ、周りに合わせて、自分をおさえるというか・・・。
若い頃の私によく「大人になりな」と言った友人たちの殆どは、もう付き合いが無い。
今、ふと、思い出すと、嘘が多いというか。いま改めて思い出すと、不倫とか、そういうの、多かった。
正直であれば、いいのかというと、他者の事を配慮できない正直さは、それこそ自分勝手で幼稚だとも思う。
私は何年も前から、私なりの「大人になる」という定義を持ってた。
自分で考え、自分で選択し、誰かのせいにしない。自分が選んだという事を理解する事。
私もかなり未熟だ。
だから、誰かのせいにしそうになる、事はある。
そういう自分を見たら、自分と向き合う。
そして、ゆっくり、しっかり、眠るようにする。
誰かのせいにする人は、多い。
もちろん日本に限らずだけど、日本では多い気がする。
今、戦後のアメリカ統治に関する本を読んでる。
日本ほど、アメリカの統治が上手く行った国はないらしい。
この本の事はいろいろと考える事や、気付くことがあったのでまた改めて機会があったら書きたいとは思う。
当時アメリカがやったことは、おかしなことがいっぱいある。それが、戦争に負けるという意味なのかもしれないけど。
まじで、真剣に、考えたら、おかしなことがいっぱい。
もちろん、従わないと生き残れない時代だとも思う。
でも、あまり深く考えないでアメリカを追っかけて、うまく生き延びた人たちも多い。そういう人たちは、経済やポジションを得られた感じがする。
そういう人たちが、上手く生き残れたんじゃないかと思う。
考えない事が、生き残る手段と言うか。
学校も親たちも「考える事」を育ててはくれなかったと思う。
いいとか、悪いじゃなく、そうやって生き残って、ある程度の経済を得る事が出来た、時代なのかもしれない。
だからか。もしかしたら、この国では「考える」より、「従う」事の方が得意と言うか、慣れてると言うか、そっちが身についている人が多いのかもしれない。
感じて、考えて、異議を唱えたら、生き残れない。とても暮らしにくい社会だったと思う。家族も学校も、コミュニティも。
わがままと言われる。
周りに合わせるように、言われる。
それが出来た人の方が生きやすい社会だったとは思う。
自分で感じて、考えて、自分で選ぶ。
そういう自分の、選択・・・わがままに、責任を持つ。
それが尊重されない。
多くの人たちが、我慢をして自分を殺す。
我慢をすること、自分をおさえる事がいい事だと大人たちに言われてきたから。
それは、ある種のコントロールであり、コントロールされて育った人たちは、コントロールが無い世界、自制、自分で考えて選択する事は慣れてないから難しいのかもしれない。
「コントロールされたくない」「自由でありたい」と思ったとしても、コントロールという「枠」を無くすのは、なかなか上手く行かない。
コントロールされてる。
「されてる」と思う人は、自由にはなれない。
私は自由なのか。と自問する。
私にはどうしようもできない事や、システムはどうしようも出来ない。
その事に関して、どうしようもできない自分を理解する。
だから、それほど自由ではない。
いえ、「枠」があった方が生きやすい。
どこに、その「枠」の線を見出しているのかは、それぞれ違うと思う。
私も「枠」の中で生きている。
ただ、すごく考えるので、それなりに落としどころを見つけて、「納得」している。
納得して、選択すれば、たいして文句もない。
誰のせいでもない。
私がこう生きると、「選択」してる。
私は、社交があまり得意じゃない。
だから、ひとりで静かに過ごす。
孤独と言えば孤独だ。
でも、それも自分が選択している。
自分で考えて、自分で選択する。その責任を受け止める。
それが、精神的な成人というか。
その先に、相手の「事情」を理解、尊重するという事があるんじゃないかと思う。そうやって、成熟していく。他者の痛みや弱さを理解をすることで尊重が出来る。共感とも違うと思う。
共感は、一体と言うか、相手との何かが合わさる感じがする。
尊重は、相手との距離があるんじゃないかと思う。
共感は依存に近く、尊重は相手は違う者で、合わさらない。
うまく言葉がまとまらないが、共感や理解を求めるのではなく、尊重できる人になる事が、また、ひとつの「大人の定義」なのかもしれない。
写真は、庭の土手に咲いてたつわぶきの花と水引って言う草だよ。