感情解放プログラムをしている時、お客様に「色々教えてくださりありがとうござます」という感じのことを言われた。

多分、私は何も教えてない。気づくためのサポートとしてヒントを出したり、自分の経験を出したりはする。でも、教えることはないと思う。うっかり教えてしまう事もあるかもだけど、気をつけてはいる。

スピリチュアルなことを、40年以上見つめてる。その中で、「自分で気づくことの大切さ」に気づき、自分で気づかないと身にならないというか、経験として魂に刻まれないと感じるようになった。だから、教えて「あげて」、その人が頭で理解したとしても、何にもならない。解ったつもりになることで、より頭での理解、頭でっかちになったりして、面倒なことにもなる。

多分だけど、これは、戦後というか、多分、明治維新以降の教育とか社会の中で「教えられたことを理解する」ことが良いことだとされてきたのかもしれない。それと、自分の感覚で感じ、それを咀嚼し、考え、自分はどう行動するか。それがもし良い形にならなかったとしても、一般的に失敗と言われることにしても、それは実践をしての「経験」になることの、大切さを見過ごしたり、失敗をよくないものとして「評価」する。そんな教育や社会があったように思う。

そうだね、私たちの世代の教育は、覚えること、暗記することがとても重要だったかもしれない。それができる人たちは、良い成績を取れ、学習としての良い評価がもらえたのかもしれない。

それは、自分の頭で考えることをしなくなることかもしれない。

今思うと、私の経験からだけど、特に歴史は、嘘というか、そういうのが多かったと思う。戦争の事や、植民地支配とかの大航海時代の事など、それは、その場所に行ったり、いろんな人たちに出会うことで、感じることがあり、ハッとしてよくよく考えてみたりした事の方が、多分だけど、史実に近い気がした。

言い換えれば、親や先生などなど、自分より上の立場の人たち、メディアなどが、正しいと思っていること、そう信じられている事を、教えられ、暗記し、覚えることで、それが評価され、良いとされる。すると、自分の感覚で感じたり、考えたりすることが難しくなる、そういう感覚が薄れていくのかもしれない。

今回父が亡くなって、家族にあった中で、まぁ、ちょっと色々あったんだけど。

教えてあげたい。気づいてもらいたい。と思って伝えたことは、より私たちの関係性をよろしくない状態にしたと思う。それで、少し落ち込んだり、考え込んだりしてしまったけど、その過程で気づいたかもなことは。

それぞれの魂は、それぞれの経験したいカリキュラムとかがあって、その場所や、そういう因縁や課題のある家族を選んで生まれてる。魂の学びとかそういうのって、誰かが教えて学べることではなく、自分で気づいて、自分で向き合い、考え、主体性を持ってやってみないと、何も学べないのかもと。言い換えれば、教えてあげることは、その人の成長というか、学びというか、そういうのを邪魔したりするのかもと。

もしかして、大切なことは、その人の魂を信じて、一歩、二歩引いて、見守る。それがその魂への尊重なのかもしれないとも思った。

 

そういえば、最近こういうことがあった。

色々、情報とかを送ってくださったり、いろんな事を教えてくださろうとしてくれる人がいたのね。でもね、なんか、嫌な気持ちになるの。なんか失礼だなと感じたり。多分ね、その方は、教えてくれようとしてるんだけど、そのほとんどの情報は私がすでに知っていることで、またその観点や理解が私とは違うの。どうして教えてくれようとしてるかというか、多分だけど、教えようとする人の心理って、相手より自分の方が知っているという自負が意識的もしくは無意識にあるのかもと。それは私への理解や尊重が欠けてるというか。だから、失礼だなぁって感じるのかもね。でもさ、私にもそういう所があるかもだね。だから、もしかしたら、そういう経験をさせてもらえてるのかもね。

多くの人は、教えること、教えてもらうことが、いいことのように、思い込んでるのかもしれない。

私はよく、「人の言うことなんか聞かない方がいい」とか言う。

教えてもらったり、なんというか、せっかく教えてもらったのだから、その人のことや、その人の気持ちをある程度考えなくちゃとか思う。それは、自分で感じて、自分で考えて、自分で知りたいと思って、主体的に動くことをちょっとやりにくくしていくように思う。

「教える」「教えてもらう」ことには、弊害も多いかもと。そんなふうに思う。

その人の魂を信じて、一歩二歩さがって、見守る。

失敗は経験でしかないのだから。


写真は。父が亡くなった頃に、ちょうどお亡くなりになった中学時代の先生の実家の庭の桜。父を見送った後に、先生の実家の庭に行ってみたら、桜が咲いてたの。

彼女は、何かを教えてくれただろうか・・・。体育の先生だったから、知識とかはそんなに色々教えてもらってないかもね。いつも竹刀持ってたから怖い先生かなって思ってたけど、大人になって接すると、とても優しい方だった。