一年前、
私はユダヤ人大富豪の教えのセミナーに参加したくて
本田健さんの出す試練を越えて5000人以上の中から最後の28人に残りセミナーの参加権を得ました。
一つ目の試練は
なぜこのセミナーに参加したいのか。
私は大好きだったレナードガスキンへの感謝と果たせてない約束があり、
ゲラーさんへの感謝を本にして残した本田さんが
何かのカギを持っているのではと思い、
どうしてもセミナーに参加がしたかった。
アメリカからの帰国をした日、遅れての八ヶ岳の参加しかできない事も解っていながら
セミナーに参加する事を諦めませんでした。
最後の試練で
『私は白石昌子さんが人生で成功するのを心から応援します」』
という用紙への署名を多くの皆さんにして頂けた事で私は参加権利を得る事が出来ました。
あの時応援して下さったみなさま、署名を集めてくださった方々
本当に、本当にありがとうございました。
八ヶ岳に行く前
ソルトレイクからモニュメントヴァレーに向かう途中カーナビが故障し、
ストームが来て携帯もネットも使えず、夏というのに凍えるほど寒く
キャピタルリーフでは雷が鳴り響きあの時期にはあり得ない雹が降りつもりました。
激しい雷と激しい雹をみながら、
もしかすると、この旅は私のビジョンクエストになるのかも、と感じていました。
1000マイル(1600キロ)を走り、ソルトレイクで別件をすませニューヨークへ。
NYのJFK空港ではスーツケースが壊れていました。
NYで新しいスーツケースを買い、ヴァージニアへ。
その後ワシントンDCからの飛行機がアクシデントにより飛ばず、
機内からデルタのサポートに電話をし、指示を仰ぎました。
私は翌日のフライトをすぐに押さえてもらえました。
目の前の事を、唯冷静にクリアする事。
自分が試されているようでした。
経由地のミネアポリスで一泊。
何十回も飛行機に乗りながらも初めての体験でした。
確実にひとつひとつ目の前の事をクリアする事が私出来る最善でした。
ミネアポリスにはDCから同じ便で来たのに何日もミネアポリスに滞在しなくてはいけない人たちがいました。
成田から新宿へ。そこからレンタカーで八ヶ岳へ車を飛ばしました。
私は馴染みませんでした。
翌日のセミナーで感情に関するワークが行われました。
共感する人は前に出て来て一緒に抱き合ってといわれて、
共感をする事はなく、ひとりで席に座っていました。
前に出て行けば疎外感も、居心地の悪さも軽減できたと思いますが、
共感のない自分の心に正直で居る事が私とってのスタンダードでした。
とても居心地が悪かったです。
複数ではなく、対個人で話をすると、行きたくなかった、や
流れで、という気持ちも数人から聞きました。
また、人前で行うワークに疑問を持ちました。
人には、人前でrevealされたくない事があります。
心の問題はとてもデリケートだと感じています。
あの時応援して下さった多くの方がご存じのように・・・
私は本田さんや、またヤングリヴィングのコンベンションでのゲリーヤングさん等を通して、
八ヶ岳から戻り、
カリスマ性を持つ人のエネルギーと
集団というものが作り出すエネルギーを考え暫くの間とても葛藤していました。
6月下旬、本田健さんの『ユダヤ人大富豪の教え』の3冊目が出版されました。
東京への出張の際に持って行きました。
1週間の出張だったのであの時ニューヨークで買ったオレンジのスーツケースを出しました。
その時にはっとしました。
あの時スーツケースが壊れた事すら偶然じゃなかった。
私はワシントンDCの飛ばない飛行機の機内から適切なサポートに電話が出来たのは
スーツケースが壊れて、デルタのサポートをたらい回しにされていたので
サポートの電話番号が履歴にありました。
私は最短で八ヶ岳に行けました。
本田さんがあの時私に言った、
「あなたは今までギリギリで滑り込んで来て、それで大丈夫だったかもしれないけれど、
これからはそうはいかないと思います。
前もって準備をするようにしてください」
私は予期せぬアクシデントが続く中、
全て何らかのメッセージだと感じていて、
正しいタイミングで八ヶ岳に行けたと思っていました。
彼がいつも正しいとは限らなし、
私がいつも正しいとも限らない。
でも最後に信じるのは
間違っていたとしても、人の言葉じゃなくて自分。
そして自分で選択をする。
東京滞在中にユダヤ人大富豪の教えを読みました。
私は12年前に夢を叶えて新聞雑誌などにもかなり取りあげられ、
人々の期待と、人々の価値観と、自分に大きなギャップがあり、私はつぶれました。
感情の問題があった為に大失敗をしました。
その後、家族との問題もあり鬱になりました。
何年も、感情(自分の心)に向き合い、感情を研究しました。
先月末、小倉で18歳からお世話になっている方Aさんの奥さまとはじめて話しました。
Aさんは私の事をとても可愛く思ってて
いつも心配してて、結婚した頃から私の話を沢山聞いていたと、奥さまが話してくれました。
私は不器用です。
でも不器用で傷だらけの私が危なっかしくも
自分を探しながら一生懸命夢を追っかけてた。
だから愛されていたのかもしれないと気付きました。
不器用でちょっとハングリーで夢を追いかけてた自分。
もし戻れるならそこに一度リセットをしようと。
私の中では今もレナードガスキンへの想いは生きています。
静かにベースをひいてきたレナードへのあふれる想いを文字に残そうと、
どこからも出版されなくても、体からだしてあげようと書き始めたら、
私が初めてJFK空港について、カバンが無くなって泣いた話からの私の物語を書くことになりました。
レナードガスキンはやっぱりベーシストだと気付いた。
私は私の物語を書いています。ベーシストに支えられて。
今、ミクシィやフェイスブック、仕事すらあまりしないで
私は自分の20歳からの人生をさかのぼりながらゆっくり歩いています。
ゆっくり歩いていると、夢をかなえるまでに頂いた応援
お世話になった方々、
たくさんの、たくさんの方々を思い出します。
先日、一年前に八ヶ岳でお会いした方々にメッセージを送りました。
私はそこにはBelongしていない、と思ったから。
ずっと自分の中に違和感を感じていたから、
そこから離れる事にしました。
本田健ブランドからも。
去年皆さまに応援をして頂いたのにごめんなさい。
頂いた応援は箱の中に大切にしまっています。
まだまだ形にはなりません。
でも、いつか、きっと、また私の夢を叶えます。
不器用でも自分らしく生きようと思います。
これからもよろしくお願いいたします。