昔々、私は結構いつもビクビクシテタ。
怒られるんじゃないか、とか、
迷惑掛けるんじゃないか、とか、
子供の頃に、
「お前が悪い」とか、
一方的に怒られたりとか、
文句言われたりとか、
虐められたりとか、
だから、色んな事が怖かったの。
自分が変わっているから迷惑になるとか、
常識がないとか、
最終的に、怒られる。
怒られる時に、
自分の非を認めて謝まったり、自分が敗北したように可哀そうな人となると、だいたい事は終わる。
もしくは、そこから、
「ほらみなさい、あなたが悪いのよ」的に展開したり。
今思えば、不思議なシステムだと思う。
でも、これが当たり前だった子供時代~
20代の時に、いつも怒られるんじゃないかとビクビクシテいる、私を友人が指摘した。
でも、そういった事が当たり前で、自分が悪い、と、植えつけられていた私は
やっぱり、怒られるのが怖くて。
心の中では、「怒られる」事への恐怖がいつもあったの。
頭でこれがおかしいと気付いて来ても、心と脳と細胞が追いついていなくて、
とっても、とってもきつかった。
それは、自分が敗者とか、可哀そうな人、になるだけではなくて
私がやって来られたように人に対してもやってしまう事もよくあった。
そこには善悪、正しい間違っているという二極性みたいなのがあるの。
そうやる事で何かを守っていたんだろう。
それが私の育った中での当たり前だった。
今でも時々、そんな人を見る。
誰かが悪いとか、素晴らしいとか、正しいとか。
どうでもいい。
「謝って済むなら警察は要らないんだよ」
その前に、謝る事で何が解決するんだろう。
多分、謝る事で、謝られた方の面子や正義が保たれる。
自分がなんか失敗したっ、って思ったら、謝るよ。
そこにはカッコつけも何もない。
素直に申し訳ないって思ったら、謝るよ。
でも、相手が謝らせたい、と思っている限り、表面的な謝りしか出来ないのが人間な気がする。
謝るシチュエーションじゃない所で謝る人や
何かの権力や、面子を守る為に謝らせる人、
相手が謝ることを望む人。
怒られてへらへらしてる人、
きれい事や理想を身にまとっている人、
を、見ると、私は目をそむける。
めんどくさい事になると、
「ごめんなさい。私が悪いの。」とさらっと言って逃げる。
「さようなら、あなたとはお付き合いできないわ」という意味を含む事も多い。
もう話したくありません、という意味だったりする。
「ごめんなさい。私が悪いの。」は
善と悪や正義感の強い人、色んな人がいる事を尊重できない人には
ある意味便利な言葉だと思ってる。
「ごめんなさい。私が悪いの。」で、もっと食いついて勝ち誇りそうな人、変な依存心を持っている人にはめんどくさくなりそうだから、はっきり、「あなたとはもうはなしたくありません」と言ったり、何もいわずにす~っと逃げるように、離れる。
もちろん、「逃げた」と言って非難する人もいると思う。
でも、生きてる時間はそれほど長くない。逃げるが勝ちな時も多い。
相手に嫌われる事はそれ程大きな問題じゃない。
それよりも大事な事は、自分を持っている事。
かなり感情的で喧嘩っ早かった私は
オイルのお陰か、何のお陰か、いつの間にか、昔ほど人と戦わず、他の道に行く人になった。
自分の為にエネルギーや時間を使う人になって来ている気がします。