言葉って、何でも言える。
だから「愛」の定義も、なんとでも言える。
私は、愛、が、全く解らなかったの。
愛されるであろう家族から、もらった愛?は、痛かった。
中学生の頃に見た聖書に書かれた愛の定義は、頭では解ってもハートには落ちてこない。遠くのもののようだった。
言葉や文字では、何でも言える。
理屈として解っても、実感的に解らなかった。
だから、私は、愛、を否定していたと思う。
否定というか、解らない物を、解ったふりしたくないの。
先日ブログで「好きなモノは好き」というのを書いたの。
書きながら、目から鱗だった。
純粋な「好き」を貫いたら、そこには愛があった。
その「愛」は、結果として、聖書の中に書かれていた愛と同じ意味かもしれない。
私は、愛を知らないし、人の愛し方も知らない。と、思っていた。
ミュージシャンと彼らの音楽への純粋な「好き」を貫いた時、時間が経って、それが愛なのかも。と、自分のハートに深く落ちた。そうしたら突然周りの人達の私への愛も感じられる様になった。
言葉では何でも言える。
特に英語になった時、私は彼らへの感謝や想いをどれだけ伝えても、満足する事は無かったの。自分の英語が言葉として不十分だと知っているから。バックグラウンドや一般常識も違う。だから不器用に一生懸命「好き」と「感謝」を伝えようと地球の裏までも飛んで行った。言葉で伝えきれない事を音楽は教えてくれるの。空気に振動して聞こえる音は微量なエネルギーの複合体。その中に言葉では伝えられない物が含まれていると思うの。言葉では理解しきれない彼らの本質や優しさ、厳しさを音から感じて、だから私は彼らをとても愛したんだと思う。
言葉は、何でも言える。嘘でもきれい事でも。
私にとっての、「愛」は、
純粋な「好き」を貫く事。
きっと、そうな気がする。