音楽とアロマの仕事。

どちらも、私にとってとても大切なパーツ。

アロマや感情の仕事はとてもやりがいがあるが、音楽は、お金を払ってもやりたい事でした。それに、歌や音楽でお金を貰う度に私の中で、変な空虚感と苛立ちの様な物も起こっていました。でも、それが何でなのか。自分で理解できるようになったのはこの数年です。

私の中での音楽は、それが無ければ私は生きていけなかったと感じるものでした。私を慰め寄り添ってくれるものでした。

変わり者で、心にもいろいろ抱えていたであろう私は、学校では虐められていたし、小学5~6年の担任の先生には理不尽な仕打ちもされました。でも、歌を歌うとその時やその事だけは私を虐めたり、馬鹿にしたり、貶める人はいませんでした。

音楽と歌は光でした。

また、音楽を愛する事は、愛すれば、父から愛されるのだと信じていたのかもしれません。だから小学生の頃はいつもがんばっていい音楽や歌手を見つけ、父が好めばそれを聞きました。

ジャズを聴き始めたのは中学生の頃で、自分で探してきました。

フランクシナトラやドリスデイ、エラフィッツジェラルドに憧れ、家で歌っていました。

歌手になりたいと思っても、どうやってなればいいかもわからないし、歌手になりたいという憧れはあっても、歌手になりたくてNYにいった訳じゃなく、そんな時に偶然出会ったのが私に初めて歌を教えてくれた、私に教えると言い出した当時弾き語りをしていた日本人のおじさんでした。彼は私の歌を聴いた訳でもなく、私が1940年代50年代の音楽の事を目をか輝かせて話していたからだけでした。そこからまた、メンタルの弱い、バランスの悪い私は紆余曲折。

心折れて、帰国した時に出会ったのが、今もお世話になっている珍竹林の社長とママでした。私は彼らが経営するクラブで、ホステス件専属歌手としてお仕事を貰いました。22歳くらいだったと思います。

1年くらいそこで働きまたニューヨークに行きました。

それから数年後、ニューヨークのレストランで演奏する古いスタイルのスイングジャズを演奏するバンド(Sol Yagedのバンド)の中で歌っていました。酔っぱらった勢いで歌って騒いでいた所ををお店のオーナーに気に入られたの。(※ミュージシャンのリンクは全て英語)

年配のアメリカ人達にとって、見た目が子供っぽい26歳のアジア人の女の子が彼らの若い頃の歌を歌うのは可愛かったし面白かったのだと思う。そこで歌いながらダンスの為のスイングジャズではなくバラードが歌いたい事、ジャズを歌いたい人は山ほどいるし、日本人の自分が英語の歌を歌う事への疑問もあり、「私がやりたくて世界中で私にしか出来ない事」と思ったのが、第二次世界大戦時代の歌を当時を生きたアメリカ人に贈るプロジェクトでした。

プロジェクトでは、私が世界で一番憧れたミュージシャン(Grady Tate)もあり得ないほぼ無料の様なギャラでサポートしてくれました。1999年、そのプロジェクトは成功し、その後周りの期待もあり、自分が解らなくなり、心病んで音楽から離れました。

次に歌ったのは、約10年後の2008年。

1999年のプロジェクトですごく私を支えてくれたベーシスト、レナードガスキンが老人ホームで暮らしている時に、奥さまがお亡くなりになり、部屋からも出てこなくなり、ご飯も食べなくなったと知ったの。ニューヨークに飛んでいきました。レナードが喜ぶことで、私にできることは、「歌う事だけ」だと思いました。

レナード笑顔(∩´∀`)∩

2週間の滞在でコンサートなんて不可能だとは思ったけど、ミュージシャンユニオン(労働組合)に行き、レナードの現状を話し、コンサートがしたい、力を貸して欲しい、と伝えました。そこからすごい勢いでコンサートが出来る状況に動いて行きました。その時にサポートしてくれたベーシストがボブクランショウという超大御所なジャズベーシストでした。この時の出来事は新聞や雑誌にも掲載され、レナードが亡くなった時には、このエピソードがレナードの追悼としてミュージシャンユニオンの新聞に掲載されました。

その後、ボブクランショウがデモをレコーディングをするなら全てサポートするからNYに来なさい、と言ってくれました。でも、1年考え、私は音楽ビジネスに入ってやって行けるとは思えず、デモをレコーディングをする意味はないと思い、それを断り、「想い出の為のレコーディング」ならしたいと伝えました。その数か月後、ボブのサポートでニューヨークのスタジオに入りました。

超一流のボブが集めたミュージシャンはみな一流でした。労働組合の規定の最低ラインのギャラでみんなが演奏してくれました。

私は、ライブをしたり、お金を貰って歌う事が上手くできませんでした。お金を貰うと歌いたくないというか、色々な疑問が起こり、混乱し歌った後に自己嫌悪に陥る事もありました。私の一番大切なものを売り物に出来なかったんだと思います。それを売る事で、私の中の大切なものが壊れるような・・・。自分の中にある弱さと強さが自分でもよく解らないまま混乱したり、葛藤をしていました。

キューバもそうですが、私が関わったミュージシャンにとって音楽は暮らしの為に必要な仕事でもあり、アメリカの公民権運動以前から生きているレナードガスキン、グレイディテイトやボブクランショウといった黒人ミュージシャンにとっては音楽は人権が無かった彼らが、社会で認められ、お金を稼ぎ、暮らせるためのプロフェッショナルとしての仕事でもあったのかもしれません。

だから彼らに私の考えややり方の理解者であったかというとそうではなかったと思います。

グレイディもボブも、レナードも私が音楽ビジネスで上手くいく事を願っていたし、彼らもキューバのミュージシャン達も私のやり方は理解できなくて困ってたと思う。私自身も自分がどうしたいのか、どうしたらいいのか解らなかった。それでも彼らは音楽を愛していて、無茶苦茶無邪気ですぐに泣く私を笑顔にしたり、夢をかなえてあげたいって思ったんだと思う。

キューバで行ったレコーディングは「友情と想い出の為のレコーディング」。ミュージシャンには殆どギャラを払っていません。彼らも、「ショーコの為に」と心と気持ちでやってくれました。素晴らしいプロジェクトで、素晴らしい音が残せたと思っています。

 

今、もうすぐ50歳になる私は、これで本当に良かったと思っています。

 

今までジャズ(Angels Swing)とラテン(ハポネソン|JAPONESON)で3枚のアルバムを作りました。どれも、制作費など元は取れていません。私が必死で働く、もしくは倹約で乗り切ります。

今も思います。

お金では買えないもの。それを私は一生懸命買いたくて、いつもギリギリの貧乏だけど、がんばって来れたのだと思います。自分の持っている全てのお金をレコーディングに当て気の毒なほどに貧乏になってもレコーディングに突っ走りました。私にとってそれ程のJOY(喜び)が音楽とミュージシャンとの中にはありました。

お金じゃなく、ビジネスじゃなく、彼らが「私の為」「私の夢の為」にかけてくれたエネルギーを私は自分の人生の宝だと感じ、3枚のアルバムの中に閉じ込める事が出来たのだと思います。

今も大切なプライスレスな経験と想い出と共に生きています。

何で突然、私の音楽のお話し。なんですが。

 

1月27日の夜に、大きな竜巻がハバナを襲いました。大きな被害が出ています。

キューバで録音したハポネソンのアルバムを売って、竜巻被害の義援金に出来ないかと考えています。誰かにただ援助を貰うのではなく、キューバ人の彼らが作ったものでお金が作れないかと、今考えて挑戦してみようかと思っています。

その前置きとして、
私の音楽がどういう風に出来てきたのか。その事を知ってもらいたかったの。