最近、色々な事が、あまりどうでもよくなって、情熱が「湧かねぇ」というか。これはこれでいいのかなぁ、と、考えながら、静かに暮らしている今日この頃。
昨日、意味もなく使った、豚のタコスの写真。
これは2014年にカンクンの安宿の近くにあった朝食屋のタコスで、マジでおいしかったんですよ。かなり。
キューバに行ったり、ビザの関係などで、カンクンに数日滞在する事も多かったので、かなり通いました。
このエンパナーダとケサディーヤも、かなり美味いんですよ。毎夕通いました。
最後の方はカンクンに半年もいたのに、このエンパナーダも、豚タコスも食べなかったんですよ。美味しいのは解っているのに、欲求がそこまで無くなってたんですよ。
そもそも、どうして通って食べ続けるかというと、「あれがまた食べたい」とか、「食べておけばよかった」と思いたくないからなんです。特にカンクンは遠いですからね。簡単には食べに行けません。
私はよく自分をフォレストガンコだから仕方ない。と思うの。トムハンクスの映画、フォレストガンプね。
彼は、ひとつの事にかなり没頭するし、集中する。で、ある日、突然終わる。やらなくなるとか、どうでもよくなるというか。気が済むんだと思う。
色々な事に、集中的に没頭する私。
それは、何かに対する私の「欲」で、それが欲しいとか、気になりだしたら、居てもたっても居られなくなる。知識もそうだし、食べ物も、経験も。面倒くさいとか、怖いとか、周りの人や事とか、不安とかより「欲」が勝ったら、気付いたら突進。でも、ある日、気が済むんです。
気が済む理由は色々なんだけど、自分にとっての、自分のレベルで理解できるまでの事というか、そういうのが満たされたり。
ダンスも、なんかアフリカ系の本質的な事が解ったら、さっと冷めた。気が済んだ。その本質と私の性質は違う。
あとは、どうにもこうにも行き詰って終わりとかもあるね。もうやりたくないとか、もうこのキツイ状況は嫌で「やれない」だとか。逃げたいとか。これも確実にdon’t want to(欲しくない)、この状況を終わらせて楽になりたいとか、そういう意思をあっての欲なんだと思う。
好きだと思っていたけど、本当はほかの理由があって惹かれていたり。例えば、本当は優越感を持ちたかったとか、人から認められたかったとか。そういう事を時々立ち止まって考えるのも大切だと思う。
豚のタコスの場合は、本当に、かなり美味いんだけど、
そうそう、私は肉好きなの。キューバでは豚肉が殆どなの。牛肉はあまり手に入らない。鶏は輸入が多くて、アメリカからのチキンも少なくない。私はアメリカのチキンが苦手で(ほんとに、脂とか多くて気持ち悪いの)、豚はキューバ内で生産してるし、さっき捌いたんじゃないかっていう位新鮮だったりもする(ほんとに店の裏庭でさばいてたりする店もある)。魚も手に入りにくい。だから豚ばかり食べてたの。そしたら、半年カンクンにいる間、豚を食べたいと思わないの。未だに、あまり豚を食べたいと思わないの。多分気が済むまで豚を食べたんだと思う。
だから、あの豚タコスも、半年のカンクンの間に、「美味いんだけどなぁ・・・」と思いながらも、私の「欲求」に火が付かなかったの。もう枯れたというかw。特に、日本食以外ってこういう事がよくある。蕎麦とか寿司は飽きない。飽きたと思っても復活する。
何がともあれ、私の「後悔がないように」気が済むまで通って食べる作戦は成功した。
でも、この「後悔がないように」と言うのはとても大事な事だと思う。
人って、欲求によって生きてるんじゃないかと思うの。
世の為人の為、と思って生きている人も、その人の中にある何かの哲学や考えがあって、そうしたいからやってるんだと思うの。
あと、動物じゃないんだから、というか、人間は考えることが出来る動物なんだから、よく考えてその人の中での責任で欲求を満たさないとだめなのかも。例えば、フォアグラが好きで、毎日食べたいと思うなら食べてもいいけど、その人の経済の範囲で。4畳半風呂なしに住んでもフォアグラが食べたいならそれでもいいと思う。でも、その人の収入の範囲でフォアグラを食べる為には借金をしたり、人を騙したりしたらどうかとは思う。フォアグラの食べ過ぎで脂肪肝になるのは本人の責任範疇。
身の丈を知っておくというか。
なんで、フォアグラの例になったかというと、25歳くらいの時にかなりお気に入りのフレンチのビストロがあったの。ニューヨークのレストランにあまり詳しくない方がご飯に連れて行ってくれるというと、そこをご案内するのね。そこで、一度間違って、前菜とメイン、両方でフォアグラを頼んでしまったの。英語とフランス語で出来たメニューをちゃんと理解できてなかったのね。
ニューヨークだから量も多いの。前菜が終わり、メインのフォアグラが来て暫くすると、もうキツイ。涙でそうだった。
でも、せっかくご案内して、奢ってもらって、おいしい笑顔で食べるのがエチケット。
最後まで笑顔で食べた。
それ以来、フォアグラの塊を食べたいと思わない。
あんなに美味しいはずの好きだったフォアグラなのに、フォアグラへの欲は無くなった。
いつもの話脱線。
人は欲に動かされて生きてて、自分に欠如していると感じてしまうもの欲しくもなる。その欲を抑えると、どこかで反動が出て、堰を切ったように何かをやらかすかもしれない。
そうそう、近年40代50代の女性の堰を切ったような解放路線的な行動はちょっとやばいなと思ってみてた。やりたい事をやりましょうとか、女性性の解放とか、子宮系とか。そういう事に人を巻き込んで、お金にしていく。巻き込まれている人たちは楽しそうだった。私たち世代は、女性は、自分を殺して、抑えて、周りに合わせて生きる事が当たり前だし良しとされていたから、それが堰を切ってしまったのかもと。
何やってもいいと思う。でも、子供がいる母親は、子供の事を考えてほしい。母親がしっかり自分を持っていないと、子供は振り回されるし、悪いケースでは取り返しのつきにくい心の傷になる事もある。
特に、女性性というのには気を付けてほしい。
女性だけども、子供にとっては必要な「母」だから。
欲は満たした方がいい。と、私は思う。
でも、欲は際限ないし、どこかで納得をして決着を付けるか、気を済ませた方がいい。
じゃないと、「欲」に翻弄されて大切なものを失う。
欲を満たすためには、何かを手放したり、犠牲にする事も、あって当たり前。
それを考えなければ取り返しがつかなくなる事もある。
私は色んな「欲」を満たす事に突っ走ったと思う。
でも、多くの場合満たすことが出来た「欲」の為には何かを犠牲にしてきた。何かを手放したり、諦めたり。
途中で考える。しっかり考える。
何かを犠牲にしてまでもその欲が勝つのか。
そうやってしっかり考えて選んだことは、もし失敗しても、思ったように行かなくても、責任、痛み、批判を受け入れられる覚悟が持てると思うよ。
今は、こうやって静かに暮らしている私ですが、また新たな「欲」が生まれ、その「欲」に翻弄され、気が済むまで突き進みたい。
フォレストガン子的に。