先日書きっぱなしにした
そこから、「欲」について改めて考えてた。
結論からいうと、「人は欲によって動かされている」んじゃないかと。
全てが、「欲」というか。欲求。
それが原動力で人は生きていられているんじゃないかと。
食欲、性欲、禁欲、知識欲、承認欲求・・・。
世の中の役に立ちたい、Aさんを助けたい、家族が健やかでありたい。
自制的でありたい、道徳的でありたい、人に迷惑をかけたくない。
そういった、常識的には良いと思われている事も「欲」。
欲は悪いものの様に思われるけど、良くも悪くもなく、それが生きる原動力となって人間は行動するのかもと。ふと思ったの。
多くの場合は、自分に不足しているもの、欠乏しているものが「欲」として現れる。んじゃないかと。
何が欠乏しているかは、人それぞれで、安全や生きて行く為の食といった基本的な欲求が満たされたら、時代や環境、倫理観、宗教等々にによって違ってくると思う。
問題は、その欲に翻弄されたりする。
その時に、自己との葛藤が起きたり、自制したりしようとガンバル。
でも、もっと、大事な事は、何を欲しているのか。
どうしてそれが欲しいのか。
何が自分に欠乏しているのか。
苦しかったり、葛藤が起きている場合は、どうして自分は葛藤しているのか。
など、自分をしっかり見つめ、「欲」のポイントを見つけ、自分の心を見つめ、周りの環境を見つめ、考えた時に、どっかの個所の紐が解けるかもしれない。
そもそも、葛藤というのは、自分の強い欲求「欲」とそれを何かの理由(常識や倫理観、刷り込まれた思い込み、人の目等)で抑えようとする「理性」がぶつかり合って起こるんだと思うのね。
人から認められたい。世の中の役に立ちたい。といった事も、掘り返していくと、自分の存在意味の不安とか。もしかしたらただの刷り込みかもしれないし。
社会の責任や、家族への責任も、放棄をするという選択を取る人も居る。でも、そういう無責任な人間になりたくない、とか。
私は、良い人面して「世の中の役に立ちたい」「貢献したい」「善い事をしたい」「人を助けたい」と言っている人はあまり信用しないの。何かが欠乏している人なのかも、だけど本人すらそれに気づいて無いかもと。
私がそうだったから。
私自身が自分の存在意味や価値が解らなくて、よい事をしないと、誰かの役に立たないと、生きている意味というか、生きている価値がないと思っていたと思う。
私が30歳で全米3500か所の老人ホームに音楽を贈ったのは、他にも要素はあったとは思うけど、「生きている価値がない私が生きている事を肯定したい」というのが原動力だったとも思う。
あのプロジェクトは、善いプロジェクトとして新聞や雑誌、テレビに取り上げられ、私は善い人になった。
新聞などに取り上げられると(当時はメディア媒体が限られていた)周りの人たちが突然優しくなってチヤホヤしてくれた。
私も「生きる」には「善い人」である事が大事というか、善い人でありたいという思いもあったと思う。
人は勝手に、自分の経験値からの勝手なフィルターで、その人を見る。
善い人でなくちゃ、居たい、という想い、私が善い人であると思っている周り人たちの期待、自分のグダグダだったりズルい部分や弱い部分。
私はバランスを壊した。
私のブログを読んでる方々に「実際もそのままですね!」「格好つけないんですね」というような事を言われることもよくあるんだけど、私はそうしようとやっている。良い人や格好をつける事で自分が苦しくなった経験があるから。
私は良い人に見せようというのは少ないかもしれないけど、でも、やっぱりあれからも、被災者等への寄付とか、貧しい国の人々への支援とか、弱者を助けるとか、やってない事はない。
でも、その度に、自分の生活を切り詰めたりして、後から、何だったんだろうと、悩む。
特にキューバではいい経験をしたと思う。助けたつもりが、援助が甘えや、そういうのが当たり前の関係を作るのかもとか。食費を援助したつもりが、私が2円の市バスに乗っているのに相手はタクシーに乗ってたり。私も援助をすることで、相手とイコールの目線になれなくなったりしたり。相手側もお世話になってるという恩や負い目の様なものがどこかで出来たり。
中学生の頃よくこんな事を考えてた。
「私はこれをする事で、「してあげた」という気持ちにならないか。私がしたくてしている。私が選んでるんだ。」
どうしてこんな事を考えていたかというと、人って何かの期待があって他人に対して何かをする事が多いと思う。
あげたプレゼントを大切にしてほしい。渡したお金をきちんと役立ててほしい。等々。
でも、その期待に応えてもらえない事も少なくないよね。がっかりしたり、してあげたのに、って思う事もあるよね。そういう自分が嫌だったし、自分がそういう系だと知っていたから、後から嫌な思いをした時に自分が選んだんだってちゃんと解っておくと、怒りや落胆が多少減る。と考えてたの。私心狭いですからね。
人は自分に足りない、欠乏している、と思っている、欲で苦しむんだよね。
消費者金融でお金借りて返済に苦しむ人も、愛されたいと思っている人も、認められたい、と思っている人も。
相変わらず、千葉で静かに暮らしている。キューバにいる時も実は多くの時間を一人で家の中で過ごしてた。
自分との時間、自分との会話の時間。
意外かもしれないけど、実は家では音楽もあまりかけない。自分の中の声が聞こえなくなるから。
それでも、自分の声をちゃんと聞けてなかったり、間違いや勘違いも少なくない。
人とあまり会いたがらなかったり、付き合い悪いのも、案外周りに流されやすい部分もある私は、ノイズを減らす為というか、ノイズが嫌だったりする。自分が解らなくならないように。
今は、「静かに暮らしたい」「情報を入れて整理したり考えるための頭のスペースを空けておきたい」「お部屋をきれいにしておきたい」等々の欲に翻弄されてる。
私を静かにさせているモノすら、全ては私の「欲」から来てるんだと思う。
またしばらくしたら、他の欲求が芽を出して、突然なんかやるかもしれない。そうあればいいな、とは思う。
私が音楽をやるのも。
私が戦争の歴史に没頭したことも。
私がキューバに住んだことも。
私の中の何かの「欲」が突き動かす。
したくない事はしたく無い。それも顕著。
私は強欲。
そうそう、こうやってブログを書いているのも、仕事の流れ的にやっておかないといけない、その方がいい、という場合もあるけど、多くの場合は私が色々考えていて(考えるのが大好きだから)、あふれ出して整理がつかないからアウトプットをして(排出)頭のスペースを作ったり、それを書くこと(アウトプット)で整理が出来たり。考えていたことが消えてしまったり、自分が忘れてしまったりするのが嫌で、そんな「欲」に翻弄されて、夜中に突然起き上がって書くことが多い。
伝えておきたい!って事もある。それも、私の欲。
教えてあげたい!ってもしも思ったとしても、それも私側の心の都合と欲。時には要らんお節介。
めんどくさいけど、書かないとなぁ。という時すら、私の都合。自分で気づかなかったとしても、何かの欲が隠されてたりする。
私が仕事をするのも、誰かの為ではなく、誰かを助けたいわけでもなく、私が暮らしていくお金が必要だから、欲しいから。お客様がご購入くださることで私は助かってる。仕事に対してはお金を頂く。お役に立てたと解るととても嬉しい。ライトワーカーとか言って、助けてる訳じゃない。つか、自分の事女神とか、ライトワーカーとか言っている人たち、気持ち悪い。
とはいえ、10年書けているのは、結局、私の欲があるから、書けてるんだと思うよ。
あと、何年、この欲求が続くんだろうね。わからない。
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今日の写真は、2009年に亡くなったベーシスト、レナードガスキンの追悼記事。
2008年にレナードを訪ねて行った老人ホームでのコンサート。レナードを喜ばせたい。元気になって欲しい。私の欲が色んな人を巻き込んでコンサートが出来たの。
ニューヨークの俳優やミュージシャンたちの労働組合の新聞の記事。まだサイトに記事が残ってる。嬉しい。
あの時の写真と音源。