近年、「おふくろの味」という言葉ってあまり聞かなくなった気がするんだけど。どうだろ・・・。
先日、もうお付き合いのなくなったむかーしの友達を検索して、彼女のSNSのタイムラインを見てたの。
食べ物、食べ物、食べ物。それもかなりいいものばかり。かなりのグルメ。かなりの美食家。
彼女とは、16歳から30歳くらいまでとても親しかった。
食べることが大好きで、私も彼女と親しかったころは色んなものを食べさせてもらった。
「すごいなぁ。いいかなぁ。こんなもんばっかり食べてるんだ・・・」と、一瞬思った。
でも、ふと、自分に「食べたい?」と聞くと、心が「NO」という。
誰かがご馳走してくれるよ、としても、それでも別に食べたいと思わないみたいな感じ。
食べ物の、なんか、そういう、自分の中の変化に気づいたのが、2015年にキューバの後にニューヨークに行った時だったの。
あの滞在で、私が普段的に外食するときの食事の価格帯は10~20ドル。
サンドイッチ、チャイニーズ、マレーシア、インド、イスラム料理、イタリアン。あとは、ダイナーとかの食事。
このあたりが、昔からよく食べていたもの。(私が住んでいた頃は4~8ドルだったわ)
それが、全くそういうものを食べたくなくなったの。
味がしないの。
ニューヨークに行く前のキューバでは、ダニーのパパが私に何度かご飯を作ってくれた。遊びに行くときは必ず食事つき。何時間もかけて一生懸命作ってくれるの。貧しくて何にもなくて、パパはご飯を食べないの。私に食べさせてくれる。
その後、マイアミのダニーの妹の家に寄り、そこでも家庭での食事をご馳走してもらった。
その後、ニューヨークで買って食べるものは味がしないというか、お金のために、仕事として作った、そんな味。心の味がしないの。
カリーダの家で食べた心の味の日記。
キューバではかなりいろんな家庭で食事を頂いた。
ダニーのパパ、カリーダ、それと、2017年以降にとてもお世話になったルイシートの奥さんジェシー、ルイシートの家の向かいに住むホセ。
その中でもこの4人の味は、私の心の中に沁み込んでる。
特に、家が近かったのでジェシーの料理。週の半分はジェシーの家でご飯を食べてた。
「ショーコ!ご飯食べたか?」
「ショーコ、ご飯食べていく?」
ホセやジェシーはいつも私に声をかけてくれた。
時々、「お腹が空いてるの!!!!」と、図々しく食べさせてもらう。
私の母は料理が上手くなかった。働いていたので、外食も多かった。
私が中学生になると、夕食を作るのは私の役割だった。
20年くらい前、まだ弟と仲が良かったころ、
「ねぇちゃん、豚汁作ってよ。俺、おふくろの味ってないんだよ。ねぇちゃんの豚汁がおふくろの味なんだよ。」
私も母の味の記憶がほとんどない。
キューバ料理って、正直に言ってそーんなに素晴らしく美味しいものでもない。だいたい、豆と肉とご飯と、揚げたバナナ。
物がないキューバ。インスタント食品もほとんどなく、食材も調味料も限られる。バラエティも少ない。
豆料理は圧力なべを使っても何時間もかかる。
暑い中、ひとつひとつ時間と手間をかけて作る。
その時間と手間の中で彼らの優しさと気持ちが料理の中に溶け込んでいるのかもしれない。
その味を思い出すと心が温かくなって涙が出る。
今の時代、みんな忙しい。お母さんも忙しい。
解ってる。
だけど、そういうご飯は、心を作っていくような気がするの。
私の心を支えてくれてる。
私の事を、大切にしてくれたな・・・と。
「ショーコ!食べるか?」
「ショーコ!いっぱい食べろよ!おかわりはいいか?」
そんな言葉が今も聞こえる。
どんな豪華な料理を見ても、私には、彼らの料理が勝る。そして、恋しい。
心の栄養。そんなご飯を食べさせてあげられる、お母さんになってほしい。