今年に入って、死ぬという事をよく考える事があったの。

去年位から、なんだか体調が悪くだるくて仕方がなかった。更年期かなと思ってはいたけど、本当にだるくてこれはちょっとおかしいんじゃないかと思ったり。

その頃、仕事でオイルのブレンドをいくつか作っていた時で、自分の体に起こっているであろうことを緩和できそうなオイルを調べた。その時に出来たのがリラクシンなの。それでちょっと落ち着いた。

それから数カ月後何かを調べてて、糖質を制限するのが流行っているらしく、ちょっとやってみたら、体のだるさが減ったの。今は大大大大好きだった炭水化物を減らしてる。今は普通に元気です。でも、あまり外出したり、社交したりしたいとは思わない。家にいるのが心地がいい。

 

6月に母が亡くなった事を知り、数か月前に親しい友人が体調が悪くなり入院した。歳をとるって、老化をするって、若い頃とは全く体が違う。

私の体も徐々に使い古した車というか。きっとあっちこっちにガタが来てるんだと思う。

喜びも、悲しみも、怒りも、老いも、否定することなく、出来る限りあるがままに受け止めたい。

いつも元気そうに見せた方が商売的にはいいとは思うけど、商売の為にそうやったり、自分をよく見せたり、誰かの期待の為に生きたり、がんばろうとはあまり思わない。

 

私もいつか死ぬし、みんな必ずいつか死ぬ。

死ぬことは悪い事でも悲しい事でもなく、当たり前な事。

 

いつ死ぬのかは解らないけど、「自分が死ぬ」という事を、ほんの少しだけだろうけど、以前より現実として自分の中で想像できるように、なった気がする。

「後悔はあるか?」

「私は何を求めて生きて来たのか?」

「私は何を求めて生きているのか?」

そんな自問自答をよくする。

 

ここに越してきてから、少しでもシンプルに暮らしたい。物を持ちたくない。と感じてそう生きられるようになれて、ちょっと安心してる。自分に何かがあった時に、物が多いと本当に困るだろうから。

死んだら何も持っていけない。

 

若い頃は物欲はそれなりにあった。

でも、「死んだら何も持っていけない」というのは、20代の頃からいつも心にあって、「死んでも持って行けるもの」として自分の心に持てるものを得たい。そういう気持ちで生きては来てる。それが、経験だったり、感動だったり、なのかもしれない。承認欲求も強かったと思う。

 

死んでも魂は生きている。とは思う。

「想い」は生きている。とは思う。「想い残し」が厄介なものな気がする。だから想い残しの少ない生き方をしたい。私はスピ系をよく叩くけど、スピリチュアルというか、見えない世界の事は当たり前のように信じてる。

今生きている「現世」が、生き辛く、苦しいから、前世や来世を知りたいとか、自分が生まれて来た意味を求めたり。今思うと、「現世」や「現実を受け入れられなかった」。それだけ。

 

母が亡くなった事を知った後、「私、がんばってきたな」と。

ずっと、ずっと戦ってきたな。と。

色々な縺れ・・・繰り返される因縁や、心の事とか、気付いてほしくて、気付かせたくて。でも、そういう因縁や心の事で、私自身も色々な影響のようなものがあったから、私自身もきつかった。私の事も、解ってもらえることはなかった。彼らは彼らの心の何かを抱えてて、私の事を解ってあげられるだけの心の余裕とか、無かったのかもしれない。親や家族に愛されたくて、受け入れられたかったのだとは思う。でも、愛されるために、受け入れてもらうために自分を変えることは出来なかった。

母が亡くなった事を知った時に。「頑張ったけど、駄目だったな」と。でも、「私は私なりにかなりがんばったな」と。

私なりに、本当に頑張ってきたと思うから、戦い続けて、孤立して、孤独になった事にも後悔はない。

濁流の様なあの家から抜け出せてよかったと思ってる。

今は毎日、静かに川が流れてる。

その静かな流れがとても心地がいい。

心地よ過ぎて、家の中からほとんど出ない。

こんな暮らしぶりでいいのかと、考える。何度も何度も考えた。

でも、ずっと欲しかったものは、きっと「自分が自分と居て心地が良く、心が穏やかである事」。それが根底だったような気もする。

こんな暮らしぶりでも何とか生きて行けるだけの仕事を与えてくれているお客様に感謝してる。

 

「私は何が欲しかったのだろう」とよく考える。

「好きな事をやって来たな」と、つくづく思う。

何かが欲しかったから、がむしゃらになれたんだとも思う。

自分が生まれて来たことを肯定できる何かだったり、承認される事だったり、良い人間であろうとしたり、受け入れられたいとか。

そういう物が、すっと削げ落ちてしまった、ような・・・。

そういう「欲」が無くなると、モチベーションが生まれなかったり、浅かったりする。

それが、良い事なのか悪い事なのか、どちらがいいのかは、よく解らない。

 

死んだら何も持って行けない。

荷物が多いのも迷惑というか。困る。

60歳になった頃に、自分で出来るうちに、ある程度荷物を整理しようと思ってる。

ネット上にいる「私」も整理しやすくしておこうと、今年ミクシィも削除したし、アメブロも殆ど記事は削除した。ツイッターも投稿を削除した。FBもかなり記事を削除したり、非公開にした。私が死んだ後に残したくない汚れの様な物。

このサイトの記事は、私に何かがあったら、ドメインが消えたり、サーバーとの契約が継続されなかったら消えるから問題ない。

SNSが盛んになってもう10年以上も過った。いざ整理しようとしたら、結構面倒な作業だった。これは定期的にやっておいた方がいいと実感した。

 

「どうやって死ねたらいいか」とかも調べたり、考えたりもした。

癌がいいらしい。ある程度死期が解り、告知されるから、比較的整理が出来る。脳梗塞とか痴呆とかで突然だったり、脳に障害が出たり、ボケると整理とか出来ないかもしれない。うちは血管や心臓の問題の家系で癌は殆ど居ないから多分癌になれない。残念だ。人は持ってない物を欲しがる。いや、タバコも吸うし、もしかしたら肺がんという可能性も持てるかとか。

日本人の寿命はすごく伸びたけど、動けないままの年数も多いという。

出来れば、70~75歳位で逝きたいな。あ、でも、今の時代、70代前半で死んでしまったら、私を知っていた人たちがもしかしたら「早かったよね~」とか「たばこ止めなかったしね」とか、「不摂生してたしね」とか、「残念だったね」とか、もしかしたら言うのかもしれない。「良い人だったよね」とか「素敵な人だったよね」とかもあるかもしれない。

でも、誰かの心に残りたいとかも無く、家族も子供もいないので私の事を心に残したい人も大していないというか、思い出の1ページや数章という感じで残るのだろう。

誰がどう思ってくれなくても、自分が自分の意思で選択して生きる、ただ自分を生きる事が出来たら、別に残らなくてもいい。というより、残らない方がいいかも。とにかく、私の事を大して知らない人に色々言われる事は真っ平ごめんだ。それが良い事だったとしても。

そんな妄想とかしていたり。

「縁起でもない事」ではなく現実だ。とにかく、人は必ずいつか死ぬ。

 

たいして何も欲しいと思わなくなった自分はこれでいいのか・・・と、この数か月何度も何度も頭をよぎった。

今日、ふと見た女優の樹木希林さんの動画。

彼女が病気をして、

一度自分が向こう側(死)に行くという事を想像してみればいい。そうすると、つまんない欲、金銭欲、名誉欲とか、そういう色んな欲や執着から離れていく。と。

もしかしたら、私に起こったのはこれなのかもしれない。と。

死は怖いものでも悪いものでもなく、当たり前の事。

どう生きるか。と同じように、その延長線上の事で、どう死ぬかを考えているだけ。


ひと月前に買ってきたバジルの鉢。最近はこれを見てるのが楽しい。毎日1時間くらい見てる。

買って来て食べる為に切り込んだ後。こんなしょぼい状態になった

毎日1時間くらい見てると、葉っぱの育ちや色で、あれ、なーんでだろー、って考えるの。肥料をあげたり、苦土石灰というのを買って来て土をアルカリ性にしたりした。日が当たらない部分もあったので無理やり添え木をして広げてみたらすごく育ちだした。