私が50歳になった、今年の春位から、今までと見えている景色が変わった。

自分の中で何とも言えない、よく解らない、感じた事のない感覚だった。

特に母が亡くなっていた事を知った6月ごろから。その時期に珍竹林のママも入院したの。

昨日ブログを書いて、その後、布団の中で本を読みながら寝落ちをして、ふと目が覚めた時に、

「死に向かって生きているんだ・・・。もうあまり時間はないんだ。20年・・・。」

あと20年。70歳。

早いと言えば早い。もっと長生きする可能性はすごくある。今の時代に70歳というと何か投げやりな、諦めのような物を感じるかも。

この数か月の色々考えていた時間の中で、「死」というものを考える事も少なくなかった。いや、これが大きなテーマだったんだと思う。

日本人の寿命はすごく伸びた。女性の平均寿命は87歳。母が亡くなったのは80歳位だと思う。最後の2~3年は病院に居たと思う。歳をとってからは沢山薬を服用していた。妹が生まれた47歳位から、徐々に薬が増えていき、60歳の頃にはかなり増えていたと思う。

父は、今生きていたら(多分生きているんだと思う)、77歳位だと思う。最後に会ったのは、2013年の秋。もう6年だ。その夏に自動車事故を起こし、その後ひと月ほど意識がなかったらしい。運転中に意識がなくなったと。脳梗塞とかそういうの。あれが、71歳位か・・・。63~65歳位の時に、心臓のバイパス手術をし、その後ペースメーカーを入れたと思う。

私が20代の頃から、何故か父は65歳位で死ぬような気がしていて、父もそう思っていて、あの頃ペースメーカーで私たちの勝手な予想寿命が延びたね、なんて言ってた。

思ったよりも長く生きていはいる。けど、交通事故以降は体が不自由なのだと思う。

両親の寿命は自分に影響をするのか。遺伝的に同じような疾患を抱えると思うので影響はすると思う。

平均寿命が87歳としても、体が悪いとか、動けない期間の平均が7年だったけか。よく覚えてないけどそんな事が本に書いてあった。私の父も母もそれぞれ疾患を抱え、手術もしている。もしも、手術をしていなかったら、父は60代で亡くなっていた可能性は高い。

どうして、父は60代くらいで亡くなるだろうと時々考える(父も私も不思議とそう強く思っていた)。どうしてそれより10年くらい生きたのだろう・・・と。よく考える。ひとつは死ぬに死ねない事情や気持ちがあったのではないかと。やれなかった事。弟には大変な状況があり、姉の旦那が父名義で借金を作って逃げ、妹にもいろいろ問題あがり、責任感が強い父は気持ち的に死ぬ訳にはいかなかったんじゃないか・・・とか。やり残した事が沢山あったというか・・・。この疑問は私が死んだ後に、魂だけの状態になった時に解るんだと思う。

これからも医学は進むので、長生きはまだ進むとも思うけど、薬漬けで、動けないままの暮らしが何年も続くのは、特に家族や子供がいない私にとってどうなんだろう・・・と。

そういう老後を迎えたくはない。でも迎えるのだろうか。

死にたくても、自ら命を絶つ事は出来ない。しないつもりだ。

じゃぁ、何の病気で死ねたらいいだろうとかも調べた。癌がいいらしい。余命宣告を受けて、痛みはあるにしても、比較的身辺整理もしやすいらしい。でも、今はがん検診などで早期発見も多く、がんも治る可能性が多くなった。

どこかを治して何とか生きながらえても、またどこかが悪くなる。そうやって、薬漬けになり、寝たきりになる可能性は高いのかもしれない。そもそも家族がいないと、入院生活もままならない。

こまめに病院や検診に行かなければ、病気が見つかった時にはもう助からないかもしれない。それありかも、と思った。そうすると、70~75歳位が寿命になるのではないかと。年金や医療費での国の負担も減るんじゃないかと。か。

いや、意外にもっと長生きするかも。だけど、70歳位で死ぬんだと思う事は悪い事じゃない気がしたの。

70歳位で死ぬんだと覚悟をしていると、例えば今だと、あと20年という事になる。

20年なんてあっという間である。

じゃぁ、それまでにいかにこの生に悔いを残さないか。という事を考え、実践しやすいんじゃないかと。

父の仕事や私の暮らしの中で、亡くなった方の霊や前世の事を見ながら、問題になるのは想念。後悔。

出来る限り悔いの少ない生き方をする事が何よりも大事なんじゃないかと、思ったりもする。私が感情解放がとても大事で、この事をこんなに大事にしているのは、この「感情」というものが、想念や後悔となって、死んだ後も残ってしまう。死んでも抱えてしまう事だと思うからなの。

やりたい事が好き勝手に出来たらいい。という事でもなく。大事な事はそれはその人が本当にやりたい事か、本当に得たいものなのかを、その人の心の深い所で感じ取り、それに向かって一歩一歩生きて行けるか。生まれて来て生きる意味は、ひとりひとりみんな違うはず。他人や世間のいう幸せの形とは違うんだと思うの。

この前の前位の記事に書いたけど、スピの見える人とか、アカシックリーダーとかに「あなたの生まれて来た意味は」とか、未来とか、魂の経緯とか言われても、殆どの人がそれを理解し受け止め、そう向って生けてない気がする。安易にそういう言葉を信じると、かえって道を外すというか、ずらす。それが当たっていたとしても、問題集の解答の答えを見せてもらっただけで、問題を解ける力は身につかない。もし当たっていても、未来は変わるような気がする。

例えば、○○大学に入り、卒業後はバングラディッシュやフィリピンで、人道支援的な活動をしたい。と、すごく頑張って大学に入っても、卒業できない人もいるし、学生時代に子供が出来てバングラディッシュにはいかずに母となるかもしれない。

魂は「これがしたい」からと生まれて来ても、生きて行く中で物語や道はどんどん、ずれていく、場合も少なくないんじゃないかと。

相談者のタレントさんに対して江原さんの言う「見ていてる」未来も、そのようにならなかった人も少なくない気がするの。でも、多分、その時点ではそういう未来が見えたんじゃないかと。だけど、未来はそれぞれの事情や都合が絡み合い、変わるんじゃないかと。

人やヒーラーとかのいう言葉は聞いてもいいけど、鵜呑みにしたり、それに乗っかったりすると、「妙な失敗」をしてしまう。私もそういう人たちに色々会ったり、色々言われてきたけど、全くもって意味をなさない。そういう言葉を鵜呑みにして信じると、勘違いが起きて、遠回りをする事もある。自分が感じ取って決めた事は誰のせいにも出来ないけど、そういう「誰か」が無責任に言った言葉を信じて道を選ぶと、それが全く違ったと気づいた時には、時間やお金も無駄にしてしまう。

で、魂が決めたであろう課題や目的も、その人が真摯に向い合い、努力をしないとその課題や目的の達成はできないんじゃないかと。

自分の中から、奥深くから、何かを感じ取り、間違っているかもだけど、一歩一歩、自分の心の奥の声に従って歩くしかないんじゃないかと。

 

医療も進歩して、90歳とか100歳近くまで生きるんだろうな・・・と漠然と思っていたけど、あと20年しか時間がないんだ。

そう思い、受け入れた時に、見える景色がまた変わった。

残された、この肉体での人生の時間の中で、悔いのないように生きるには、死んだ後に後悔や想念を残さないためには、どう生きればいいのか。

 

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感情解放の仕事には本当に感謝をしている。お客さまとの深いやり取りで、私は多くの事を学ばせてもらう。

彼女たちの中の何かを根底でひっくり返す。簡単じゃない。相手も私もとても大変。だけど、ひっくり返せた時にその人の見ている景色や世界が変わる。12週間でそれを感じさせてもらえた時、この仕事を独創し、やらせて頂けること、それと父にとても感謝をする。

「どうか、自分の人生を自分の意思で生きてください。後悔の少ない人生を生きてください。」と願いを込める。

今週また一人、背中を押して別れた。

 

私も、あと、20年しかないであろう私の人生を、自分の奥深くに耳を傾けながら、考えながら、悩みながら、模索しながら、一歩一歩。死に向かって歩んでいく。