この数か月、先が短いかも的な記事がちょっと多かった。

とにかく、50歳になってから、見える景色が変わったの。もしかしたら、こうやって、人は「終活」モードに入るのかもね。

「どう生きるか」

って、たいていの人は人生の時々にふっと考えると思う。

「死んだら終わりか」

スピリチュアルに興味を持ち始めると、「死んだら終わり」とは思わなくなると思う。「死んだら終わり」と思う人たちも世の中には多い。

「死んだら終わり」とは思わない私は、死んだ後も魂が生き続けていると、信じてる。「魂が肉体を離れる」だけだと。

死んだら物資的なものは何も持って行けない。でも、嬉しい事、悔しい事、腹立たしい事、悲しかった事、共有した「思い出」などは、持って行くんだろうなと、20代の頃から思っていた。あの頃は「心の宝物が欲しい」とよく言っていた。その事には結構貪欲だったと思う。

今もそうといえばそうなのだけど、あの頃は自分にとって「よいもの」「嬉しい事」「美しいもの」だけが欲しかったけど、今は、「悲しみ」「怒り」「失敗」「悔しさ」といったもや「試練」のようなものもそれを乗り越える事が出来ると、単なる「よいもの」「嬉しい事」「美しいもの」より「奥深くいいもんだなぁ」とも思うようになった。

 

亡くなった人の想いを解消してあげられたら、エネルギーがすっと変わる。安心して上がっていく。「想い残し」や「後悔」って死んだ後も厄介なのかもしれない。

感情を解放するというのは、今生での処理が出来ていない「想い」の掃除や、整理整頓で、その感情や出来事に対する執着を手放す。解放をするときに最も大事なことは「理解」する事だと思う。

理解すれば、納得する。

納得すれば手放せる。

そういう事をひとつひとつやっていくと、やりたかった事や、その人にとって大事な事に気づきやすくなる。

 

今年になって、何かが削げ落ちちゃったかのようにやる気が起きない。「やる気が起きない」というとネガティブに聞こえるかもしれないけど、「欲」が減っるとシンプルになって楽になった。

欲しい物は減った。出来る限り物を増やしたくない、持ちたくない。と思うようになった。

人付き合いも減った。面倒な人との付き合いや、社交のようなもの、「おつきあい」的な事は殆どしない様になった。これは、感情の解放がある程度できて、自分の事が好きになり、自分と居る孤独な時間と空間の心地よさと大切さを感じられるようになったのだと思う。

ちょっと寂しいのが、やりたいとかの、好奇心の様なものも減った。これは体力とも関係しているのかも。どこか(外国とか)に行きたくても、飛行機調べて、治安を調べて、宿を調べて、物価を調べて、その国での交通手段を調べて、両替の方法を調べて等々をやっているうちに、途中で面倒になる。

「労力 < 好奇心」で、行動に移せる。

「労力 < 居心地の悪さ」という場合もある。環境を「変えたい」ので、行動に移せる。

お金も必要ですが、好奇心がかなり強いと、なんとかしてお金を作るもんなんです。

 

「~したい」→「WANT」。

「欲する」何かがあるから人は動けるんだと思う。

 

何かの反動で起こる「WANT」もある。例えば、さっきの 【「労力 < 居心地の悪さ」という場合もある。環境を「変えたい」】は居心地の悪さから来る反動で起こる「WANT」

人から認められたい、と思う事も「認めてもらえなかった」「自分の存在への不安感」などの反動で起こる「WANT」

そういえば、私が昔過食症だった時の、押し寄せてくる「食べたい!」という衝動は、自分の中で起きているアンバランスや人間関係や自分自身へのストレスや不安が「食べたい」という「WANT」の衝動を生み出していたと思う。

ちょっとネガティブな要素でのWANTを書いたけど、WANTは悪い事ではなく、人はWANTがあって生きている。WANTに突き動かされるから生きれる。

私が思う「出来る限り後悔の少ない人生を生きたい」というのも、WANT

 

人から悪く思われたくない。嫌われたくない。もWANT。

添加物の少ない食事がしたい。もWANT

もちろん、「あの人は地獄に落ちて欲しい」というのも、WANT

とにかく、この「WANT」という感情によって私たちは動かされて、生きている。

WANTが満たされないと、生きててキツイし、充足感を感じにくい。

 

「欲が無くなればいい」という事ではなく、「欲が減れば」楽にシンプルに生きれるような気がする。「無駄な欲」や「自分が振り回されるような欲」は少ない方が楽。

そういうWANTが全てなくなる必要はなく、あくまでも整理なんだと思う。

感情の事をやっていると、ひとつの「ある感情」は一つじゃなくて、何層にもなって出来ている。それをひとつずつ、扉をあけるように理解していき、その感情の奥にある「本当のWANT」を見つけるの。「そのWANT」の大元、というのかな。

 

例えば、誰かの「為」というのも、その奥にはそう思う人のWANTがしっかりあるのだと思う。

子供の為。社会の為。誰かの為。

人の為。って「偽」って書くでしょ。本当のWANTはその人の中に必ずあると思うの。

 

生きている中で、その人の中のWANTをどう満たしていくか。「解消」させていくのか。

沢山あるWANTの整理が出来ると、解消させやすくなるのだと思う。

満たされなかった事、解消できなかった事が、死んだ後も残ってしまう。魂の中のにも残ってしまう。

その人の中のWANTは一人一人違うんだと思う。それがその人の魂が今世でやりたいと思って決めた「計画」の一部なのかもしれない。だから人が提示する、世の中が提示する幸せを追っても満たされないのかも。

 

悔いのない人生を送る為には、自分の中のWANTと一つ一つ向き合い、出来る限り解消しやすい形にしていく。そして、解消する(行動する)。

そうすれば、悔いの少ない生が送れて、死ぬ時にも、死んだ後にも「想い残し」が少なくて済むんじゃないかと。