どれだけ座って瞑想しても、高次の何かにメッセージをもらっても、本を読んでも得られない「立体的な答え」を「経験」から得る事が出来るような気がするの。それは経験からしか得られないのかもしれないとも思う。
キューバでは、想像もしなかったような事を色々経験をし、沢山の疑問を持ち、沢山、沢山、沢山、考えた。
楽しい事も、嫌な事も、嬉しい事もあった。だけど、本当に、沢山の、沢山の疑問をもち、沢山考えた。
B.C(Before Cuba)とA.C(After Cuba)では私はすごく変わったと思う。変われた、と思う。
いろいろな経験をすると、興奮や混乱が起き、その後消化されて、ろ過されて、自分の一部になるに2~3年かかると思う。
不思議なんだけど、思ってもなかったような事がろ過された後にすっと残って、自分の一部になっていたりする。
いろいろな事に気づき、色々な事が私の一部になったと思う。
特にお金や物資的な事。
キューバでは、私は「お金のある人」だった。
あの国では「外国人=お金がある人」なんです。
みなさんご存じの通り、そんなにお金を持ってない私だし、現地の人と同じものを食べ、現地の人と同じ乗り物に乗り、出来る限りキューバ人と近い金銭感覚で暮らそうと思い、そうやって暮らしてきたつもりですが、どこまで行っても彼らから見ると私は「お金がある人」なんです。
私はあの国で「お金がある人」の側の人だったんです。
「お金がある(金持ち)」という経験ではなく、「お金がある人側」という経験です。
「外国人=お金がある人」なので、外国人であるだけでお金がある人と思われるんです。それは「思い込み」というより、「頭の中の常識」という感じです。
例えば、若い頃に、お金がある人には美味しいものを奢ってもらったりしていました。水商売をしていたのでお金がある人は「いいお客さん」になってもらえるかもです。何かを貰えたり、買ってもらえるかもしれません。露骨な女の子たちも少なくありませんでした。特に夜の世界だからですが、それは夜の世界に限らなかったと思います。
私は、「当然の様に奢ってもらう側」、NYにいた頃はおじさまたちに「学生だし、大変だろう」と、「美味しいものを食べさせてあげよう」と沢山の「美味しいものを」食べさせてもらってきた人でした。
水商売以外の世界でも、好きな事をしているけど、バイトをして、かなりの倹約をしてカツカツで生きているのが解るので、友達は結構奢ってくれました。「ショーコ!いいよ、ここは私が(ニコ)」という感じです。
人生の殆どが、お金が無い側の立場です。
それが、キューバでは、事業で成功している訳でもないし、良い会社に勤めて給料いっぱい貰っている訳でもなく、おっさん騙してお金をもらっている訳でもないのに、「外国人」というだけで、お金があろうがなかろうが、「お金がある側」になったんです。
お金がある側の人は、無い側の人からどう見えるのか。
無い側の人たちは、ある側の人たちにどんな態度をとるのか。
そういう事を体験する事が出来ました。
お金が無い、と言っている人たちはどんなエネルギーか。
彼らは、どういう考え方をしているか。
彼らは、どうしてお金が無いのか。
彼らは、どういう風にお金や物を扱っているのか。
彼らは、どんな事を言いだすのか。
彼らはどうして「そんな物」が欲しいのか。どうして私は欲しくないのか。
例えば、車。彼らにとってはとても高価で、手に入れる事は難しいです。私は車は全く欲しいと思いません。彼らは車を自国に持たない、欲しがりもしない外国人の私を不思議がります。
親から免許を取った日に軽自動車の新車を与えられました。自動車学校自体、親が勝手にお金を払って、私を突っ込んだの。
マイカーを持っていた時期もありましたが、どこか外国に長期で行くときに邪魔になります。維持費も税金も取られます。メンテナンスも必要です。
私の家では父がかなりの車好きで、子供の頃からかなりいかした車に乗っていました。トヨタのソアラが出た時はいの一番に買いました。車はたいだい2年ごとに買い換えます。私が大人になってからは、父はかなりよさげなBMWに乗っていました。でも、私が「コミュニティカレッジ(アメリカの短大)に行きたいから、援助して欲しい」というと、「金は無い」と言われました。それでもピカピカで大きなBMWが家にいつもあるのです。
「当たり前にあったけど、私には不要なもの。どうでもいいもの。」
それは、「持っていた」という「経験」が無いと解らない事なんだと思います。車を持った「経験」のない彼ら(キューバ人)に理解が出来るはずが無いのだと思います。
「お金がある側」の経験をしないと「お金がある側」から見える景色を見る事はありません。
確かに、物価の低いキューバでは私はお金はない訳ではなかった。だけど、倹約することが好きなのか、身についているのか、意味のないお金を使う事をしません。
バスで行ける所はタクシーではなくバスを使います。
良いレストランに行く事はありません。←これは、多分、ニューヨークでいろんな経験をしているので、キューバのちょっといいレストランは、全くいいと思わないので、超無駄遣いなんです。それより、キューバ人が食べているものをキューバ人と並んで食べることを好みます。色々な事に気づけるし、そこでしか味わえない経験だし、何より安いです。たまにお腹を壊したり、外国人だからとぼる人もいますが、第三諸国はそんなもんです。
私はお金があったとしても、バスや現地の人の食べ物を選ぶのだと解りました。
今住んでいる、昭和40年代の団地がかなり気に入っています。家賃は4万ちょっとで、3DKです。
もしかしたら、今まで住んだ家の中で一番好きかもです。
広さもですが、何よりも日当たりが素晴らしいんです。
若い頃に住んだニューヨークでは古いビルは少なくなく、古いビルに住むことが当たり前でした。古いビルでも、私のようにイーストビレッジのど真ん中に一人で暮らしていると、みんなにかなり羨ましがられていました。だから、「古い」は全然問題が無いのです。古くても快適に住めるようにリノベーションをしていれば全く問題が無いのです。
大きな団地なので、暮らしに必要なものは近くで手に入りますし、何よりも野菜が安くて美味しいのです。東京にも1時間位で行けます。
こんな、ボロ団地暮らしに満足して、喜んでいていいのか?と思う事もありますが、見栄とかがないので、自分にとって都合が良ければそれでいいんです。
何よりも、家賃が安いと、無理して稼がなくていいので、競争もなく、焦りも少なく、心が穏やかでいられます。
お金がいっぱいあっても、家は欲しくありません。
メンテナンスや税金も面倒です。
車はカーシェアで十分です。
お金があっても、欲しくありません。面倒です。
キューバでお金がある側になる事で、お金があっても自分に必要のないものは欲しいと思わない「自分」が確立できたように思います。
それよりなにより、私は「自由」を欲しがるのだと解りました。
物を持つことで縛られる。
メンテナンスや税金がかかると、仕事を頑張らなくてはいけない。お客さまにクリスタライズでお金を落としてもらうために、私としては言いたくない様なキラキラした事を言って頑張らなくてはいけない。
私は、お金や名声やよりも、「自由」と「気楽さ」の方が欲しいんです。
若い頃から、お金の事ではうまく行けなかったのですが、やっと解放された気がしています。
どれだけの自己啓発本を読んでも、どれだけ人からアドバイスをもらっても、解決できずに(お金持ちになれずに)どこかで持ち続けていたお金に対する焦り。キューバで「お金がある側の人」になる事で、私にとって何が大事かがわかる、大きなきっかけ、解けなかった縺れを解く事が出来たように感じています。
私は、いっぱいのお金や地位や名声、車や、パートナーや家族より、自由と気楽さが大事なんだと思う。
私が「心地よく私」であること。
引き寄せ、自己啓発、スピリチュアルワークでは得られないと思う。
頭でどれだけ考えても、「欲」を抑える事は難しい。
結局は「経験」しない限り、学べないのかもしれない。
本当に、本当に、キューバに行って良かったと思ってる。
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写真は20センターボ×2枚。これでバスに乗れる。
1人民ペソ=4.4円=100センターボ。
なので、バス一回2円位。
だけど、こんな小銭をちゃんと持っているキューバ人は少なく、1人民ペソをもってバスに乗るの。