この数週間、ベランダに座ってる時間が、長い。

植木を見ていると、飽きない。

むこーの方にある畑か田んぼ、か、からカエルの声が聞こえだした。

虫の声もする。

コロナウイルスの事や経済の事、これからの事を考えると、心が焦ったり、不安になったりもする。けど、変わらないものも色々あるなぁと、ベランダに座って考える。

「生きるためにどれだけの物が必要か」

そんな事をキューバ辺りからすごく考えてた。

私はお金持ちじゃないので、物が欲しいとかの「欲」は自分を苦しめる。苦しみたくないから出来ればその「欲」を少なくしたい。そもそもその「欲」は何なのか。人々は何を「追って」いるのだろうと、考えたり。

資本主義の骨頂のニューヨークと社会主義で貧しいキューバ。

物がなければ、あるものを如何にうまく使うか考える。結構やれる。まぁ、生きていける。

家族は生きるために必要だとは思ったけど、無くなれば、亡くなれば、それでも私は生きている。

持ち家も、車も、家族もない。

手放したり、失ったり。

失ってみると、無くても生きれると解った。

気付いたら、たいして何も持ってない人になった。つもりだったけど、部屋の中を見渡すと、色んなものがあって、とても便利で快適に暮らしている。

日本の暮らしは豊かだと思う。

「必要なもの」主義な私は、この古い団地でゴキゲンに満足している。

 

今、コロナウイルスのニュースを見ながらつくづく思うのが、多くを求めなければ、この国の国民だと路頭に迷って死ぬことはないな、と。

というか、私はいつも、まぁ、路頭で生きている。「迷う」のではなく、路頭で生きている、感じ。

 

「私、何があっても、多分大丈夫だろうな」と、ベランダでふと思ふ。

「焦っても仕方ない」と私の心が言う。「焦る必要はない」とどこからか聞こえる。

 

コロナの収束はまだまだ先だろうとは思う。

マスクや他人との距離を持つことが当たり前な「Withコロナ」の時代が1~2年続くのだとは思う。

そう思っておけば、「新しい当たり前」を当たり前だと理解していれば、「過去の当たり前」だった日々が帰ってくることに妙な期待をしないですむ。

 

世の中の99%の人は先が見えないし、それがいつなのか、その後の社会や暮らし方、人々の価値観がどうなっているのか解らないと思う。私も解らない。

ネットを開くと、解ったような事を言う人や、宇宙とかからのメッセージがどうとか、不安や不満を持っている人たちがいろいろつぶやく。

見てると腹が立ってくるので、ベランダに座って植木を見つめる。

植木は毎日少しずつ進歩する。

成長がおかしいのがあると「なんで?」と思って、じーーーーーっと植木を見つめる。

ネットで調べる。「そういう事か!」と知る。

そうやって、私も、少しずつ進歩する。

 

半年前には「当たり前」だった事が、そうじゃなくなった。

頭ではわかっているつもりでも、心がうまくついていかない。

「今の当たり前」の世界や暮らしとこころの歩調を少しずつ合わせる。合わせようとしてる。

 

ユーミンって終わった恋愛を歌ったものが多いよね。

戻らない日々とか、変わってしまったものとか。

 

ユーミン聴きながら、「喪失感」の様なものを置き換えて、この変化、変わってしまった今に適応して、また生きて行くんだな、と。

今までいろいろ乗り越えられたのだから、どうせまた乗り越えて「生きてる」んだろうな、と。

 

千葉に越してからは「自分にとって」生きるために必要な事を軸にして、静かに、適当に楽しく暮らしている。

色んな無駄なものやどうでもいい事を手放したら、面倒な事を削いだら、そんな暮らしになってしまった。

もともと2年くらい前のメキシコ暮らしから引きこもってるし、日用品や食品の買い物に3日に一回行くくらい。

暮らし方はそれほど大きくは変わってはないけど、社会や世界で起きている波で、心がちょっと違う。不安だったり、イラついたり。

だから確認するかのように、変わらないものを数えてみたり、見つめたりする。

植物の生き方も、私の核も、変わらない。私の魂も。

どんな未来が来たとしても、私が私でありさえすれば、変わらないものは変わらない。

「私」は「この時代」を生きている、だけ。

波を静かに見れる自分で居たい。

そう自分に言う。

頭ではわかっていても、心がまだイマイチついていっていない。もうちょっと。