静かに、穏やかに暮らしてる。

「幸せか」と考えると、幸せだと思う。

だけど、あまり人にも会わず(自粛とか関係なく)、これでいいのだろうかと、時々考える。それでも、今何がしたいとか、どこかに行きたいとか、あまり思わないから、きっと今はこれでいいのだと思う。

長い間、自分の存在価値や存在理由を掴みたくて、もがいて生きていたんだろうな。

人に認められるように、善いとされるように、正しいとされるように、誰かの役に立てるように。こんな私でもそういう生き方をして来たと思う。私が30歳の時にアメリカの老人ホームへの音楽プロジェクトをしたのは、自分が生まれて来た意味や価値が欲しかった。そんな気持ちが根底にあったと、はっきり、当時から解ってた。

太平洋戦争の事で色んな活動に脚を突っ込んだりしたのも、自分が生きている事を自分にも他人にも意味のあるものにしたかったのかもしれない。

それらの活動を通して、周りの人たちの私を見る目や扱いは変わったし、両親は、父は喜んだ。

音楽に情熱を注いでこれたのも、父の影響が強く、父に認められたかったというのもあると思う。

自分が生まれて来たことを肯定したくて一生懸命だった。

 

人って、多くの場合、親に認められたいという欲求をとても強く持っていて、それは根底にある基本的な欲求なのではないかと。

スピリチュアル的には自分の魂がその親や環境を選んで生まれてくるという。

だけど、「どうして私が生まれて来たのか」。現実的、物理的には親がセックスをした。これに尽きるのだと思う。

セックスに至る心理や状況は様々だとは思うけど、「両親がセックスをした」、これなくして生まれてくることはない。

互いを思いあう関係であってくれたら有り難い。とはいえ、うちの両親は色々障害あって、駆け落ち同然で結婚したので、愛はあったのだと思う。

現実的、物理的には両親が選んで行った事。なのに、生まれて来た「私」を否定するような事や無視したような事をしたり、言ったりする。

それは「心を殺す」こと。

産んでおきながら、殺す。

命を与えておきながら、殺す。

これって苦しいよね。

私は死にたくなかったから、必死でもがいたし、戦ったし、自分が生まれて来たことをなんとか肯定したいと思っていた。それは「生きる力」でもあったと思う。

 

昔、若い頃、誰かに否定をされたら私はとっさに強く反発をしている事に気づいたの。その時に、否定された自分をゼロに戻すため、護る為には3倍の力が必要なんじゃないかと思ったの。

自分自身に肯定感を持っていて、安定していたらそんなことはしなかっただろうけど、私の存在の命はいつも危機感を持っていたので、そういう事を条件反射でやってしまっていたのだと思う。

 

私が今までいろいろな事に挑戦してきたのは、自分の存在の意味を肯定させる為でもあり、私という存在の危機感でもあったし、親に認めてもらうためでもあったのかもしれない。

 

人間は「欲」があるから動く。

お腹が空くと食べたいと思う。

心地が悪いと、楽になりたいから体制を変える。

欲しいものがあるから、買い物に出かける。

そんな当たり前な事すら、欲があるから動けている。

 

認められることが、セックスをして私を産んだ親の責任でもあると心の奥で思っていたのかもしれない。それも認めさせたかったのだと思う。

親から認められなかった人は、自分の中に不安を抱えてしまうと思う。

それは基本的な欲求で、人間が生きて行く中でとても重要な「心」の欲求なんじゃないかと思う。

 

母が亡くなった事を知った時に「私、精一杯がんばってきたな」と思った。

父もそのうち亡くなって(もしかしたらもう亡くなってるかもしれない)、私はきっと父の死を暫くしてから知るんだろうなと。

 

きょうだいにはもう会わないと思うけど、私が死んだら役所から連絡がいくのかもね。

そもそも、きょうだいたちがどうして私を憎むのか、傷つけるのか。それも親の愛情を自分に向ける為。だからきょうだいは二次的なもので、核は親なのだと思う。

だから、多分、終わったの。

だとすると、きょうだいとの戦いも終わったの。

だとしたら、私は、もうどこへも逃げなくてもいいの。

 

身近な人たちに拒否されてきた人は、受け入れてくれる場所を求めるのかもしれない。

今思えば、私はそうだったと思う。

否定され拒否された自分を誰かが受け入れてくれたら、価値があるのだと感じられるのかもしれない。欠如していたから心がそう強く欲してしまうんじゃないかと。

親がなくなり、否定する人たちが、私の意識の中で小さくなったら、「受け入れられたい」という「欲」もあまりなくなった。「あまりなくなった」と書いたのは、無くなってしまう事は人としてもしかしたら悲しいかもしれないし、無い事は無いと思うから。あまりなくなったら、生きるのがとても楽になった。

 

否定されない。プラスでもマイナスでもなく、自分がただ自分でいられる。

そのゼロ地点が、ありのままの自分であり、誰に(きょうだい)責められることもなく、そうやって暮らせている事が今の私にとっては幸せなんだと思う。

じゃぁ、過去の心の苦しみや悲しみは無かった方がいいのか?というと、そうじゃないと思う。

それがあったから「私」は必死で生きようとした。だからいろんな経験が出来た。その経験が無ければ、今の私はいないし、そのひとつひとつの経験や出会いが、人生の学びであり宝だと思うし、それらが無ければ、なーんだか退屈な人生だと思う。

 

誰かを助けるために、導くために生まれて来た、ライトワーカーとか、そういう事を言っている人たち、上から目線になってしまうスピ系の人たちは多くの場合、親との関係に問題がある人たちで、それから目を背ける為や、自分の生を肯定する為にそう思い込みたいんじゃないかと感じる事がよくある。

だけど、「どうして生まれて来たか」

両親がセックスしたから。

たましい的には、色んなことを経験したり学ぶために生まれて来たのだと思う。未熟だから生まれて来てるんだと思うよ。

 


今日の写真はね、うちの棟の前にあるラベンダーに蜂がいたの。多分蜜があるんだね。別の棟の所にはまた違う品種のラベンダーがあるよ。

そんな穏やかな、何でもない日々が、今の私にとっては嬉しい。