「豊かさ」もそうだけど、「幸せ」「愛」。

ひとりひとりの定義も違うと思うし、言葉では表わせにい。

よくスピリチュアル系の人が「愛と感謝をこめて」とか、「愛」という言葉を使う。

でも、愛を感じた事はない。なんか気持ちが悪く感じる。

そのうちに、「愛」という「ことば」や「文字」を信用しなくなった。

もしかしたら、「愛」が不足しているから「愛」への憧れや「愛」というものが崇高だとか、美しく、良い物だという「思い込み」が「愛」という「言葉」を使ってしまうんじゃないかと。

「私は嘘は言わない」という人ほど、嘘をつく。

真が少ない人ほど、そういう「ことば」をいうような気がする。

愛がない人ほど、わざわざ言葉にするのかもしれない。

言葉では何でも言える。

とはいえ、きちんと納得をした定義をもってその言葉を使っている人も多くないのかもと思う。

定義があったとしても、その定義は人それぞれだと思う。

 

「豊かさ」も、私にとっては長年の疑問だった。

特にこの10年ちょっと、スピや自己啓発系の人たちのお金や物質面プラスアルファ系の発信を見ながら、私の中ではどうもしっくり来ず、彼らの言っている事ややっている事が気持ち悪かった。私はいつもあまりお金はない。趣味と特技は「倹約」。そんな私は、ひねくれているのか。嫉妬しているのか?そんな事を考える事がよくあった。

10年程前、当時親しくしていたスピ系の人が恵比寿だっけかどこかにあったウエスティンホテルで朝食を食べるという会を開くといった。ら、沢山の人がワクワク感満載で申し込んだ。

私には全く意味が解らなかった。宿泊客でもないのに、何が悲しくて、わざわざ、朝、そんなホテルに、朝食を食べに行くのか。

「恥ずかしい事」だと思った。私はね。

そういう所にいくと、そういう、ラグジュアリーなエネルギーが身につくとか、引き寄せるとか、そういう事を言っていた。

私がひねくれているのか。

何が私にそこまでの違和感を持たせるのか行ってみないと、つかめないと思ったので、「良かれ」と思ってあまりにも誘ってくれているので一度だけ行ってみた。

 

そこで朝食を食べるというのが、素敵な事でステイタスなのか?

私は恥ずかしかったし、居心地が悪かった。

私は、「豊かさ」から遠い人なのか?

ウエスティンホテルが特別であったり、憧れであると感じている事が、すでに彼女たちの思う所の「豊かさ」の定義で言えば、「貧しい」人たちなんじゃないかという気がする。

当たり前にそういったホテルを利用する人たちにとっては、何にも特別な事ではないのだと思う。

 

そういえば、その朝食会まで、私はウエスティンホテルを知らなかった。

今、ふと、ニューヨークにあったっけ?と調べると、「ああ、あのタイムズスクエアにあったホテルだわ」と解った。

あれ?あのレベルのホテルなんだ・・・。

時々トイレを借りに行っていた。便器がTOTOだった記憶が・・・。

 

実は、ニューヨークにいた頃の中の21~26歳位まで、一番好きな遊びはレストランに行く事と、ホテルのバーに行く事だったの。

そこそこのレストランとか、結構行ったと思う。

ホテルのバーも結構行った。まぁまぁ好きだったは、ピエール、リッツカールトン、ウォルドルフアストリア。プラザホテルは観光客系の人も多くて落ち着かなかったからあまり好きじゃないの。

特別に好きだったは、当時Hemsley Hotelというのがあって、何度か名前が変わったと思う。

あ、これだ。

ここのバー、ホテルをはいると一応解りやすい所にもあるんだけど、なんか、かんか、抜けて、扉を開けるとそこにもバーがあったの。クラシカルでとても素敵な重みのあるバーだった。ドラマの「ゴシップガール」で出てくる。

もちろん、21歳の私は、一人では行かないし、女友達とも行かない。

エスコートをしてくれるおじさまというか、ホテルに対して恥ずかしかったり、失礼じゃない振る舞いが出来る社会的ステイタスがあってちゃんとそつ無くエスコートが出来るおじ様としか行かない。

レストランも、行くホテルのバーも、その日の相手に合わせて、場所や格を考える。無理な背伸びはさせないし、年齢も考える。その人にとって無理なく食事やお酒を楽しめる場所で、ホテルやレストランに対しても気を遣わせたり、嫌な気にさせないような場所を選ぶの。

30代くらいまでの駐在員は、マリオットやヒルトンあたり。40代半ばくらいからの駐在員はフォーシーズンズあたり。というのも、そういう事を考えて場所を選ばないと、バーでの扱いも違うし、なーんかあるのよ、振舞い方とかが。

女友達とは、よくAlgonquinのロビーで待ち合わせた。

若い女の子だから、ある程度のエチケットを守っておくと、ホテルの人たちもそつ無く対応をしてくれる。

おじ様たちとホテルのバーに行っても、「若い女の子」としてのエチケットをある程度持っていると、そつなく楽しめる。連れて行ってくれた人や、お店側への気遣いでもある。

NY時代、男とか女じゃなく、「NYのお父さん」の様な、人が居たの。東大とハーバード大学を出た弁護士。色んなレストランやバーに連れて行ってくれた。

私も、ウォルドルフアストリアホテルに入っていた日本食レストランでウェートレスをしていた事もあったし、お父さんのお陰で、レストランでのメニューは勿論、オーダーの仕方、振舞い方を自然と身に付けたの。レストランではまぁまぁ恥ずかしくなく行動できてたんだと思う。

ウォルドルフアストリアは、今はどうか解らないけど(中国人が買ったという噂も)、あの頃は世界の要人やアメリカ大統領が宿泊するホテルだったのよ。

 

お父さんは、とてもフランクな人で、無知馬鹿無邪気な私をとても可愛がってくれた。

私が一番好きだったレストランはIL CANTINORIというイタリアンレストラン。シンプルで、センス良く、素材の良さを感じさせてくれるお店だった。(ここは、ドラマのセックスアンドザシティで出てた。懐かしかった♡)

お父さんと行けば、色々教えてくれるから、美味しいワイン、前菜、パスタ、メインディッシュ、デザートが必ず食べられる。

NYで困った事があったり、わからない事があったら、お父さんに相談をしたり。

その後、ちょっと別の友人の事で色々あって、お父さんとの付き合いが難しくなった。

私は格好をつける事もなく、無理をする事もなく、誰を騙すわけでもなく、旨い事をいう事もなく、そういう世界を経験、体験する事が出来た。ただの経験であり、私はそういう世界に属してない。無理をして属する必要もない。

 

私は、水商売をしてたでしょ。

だから、いろんな人たちに会ってきた。色んな女性たちにも会ってきた。

お金はあまりなかったから、いつも倹約しながら暮らしてた。時々、貧乏な自分がみじめだったり、焦ったりもした。

だから、無理をしてみた事もあった。

 

ある時、ある人が、好きなものを買ってあげると、五番街に一緒に行った。

グッチ、ヴィトン、プラダ、ティファニー・・・、友達が持ってるから、私もそういうのが欲しかった。だけど、実際にお店に行くと、私には欲しいものが無かった。何も買ってもらわなかった。

それ以来、「好きなものを買ってあげるよ」という人には「タワーレコード行きましょ!!!」と言って、タワーレコードに行ってCDを買ってもらうようになった。

 

結構、かなりお金持ちな人のホームパーティとかも行った。

上昇志向やオジサンたちに何か買ってもらう系の女友達たちもいた。

何度かやってはみたけど、私はそれが心地よくなかった。

 

貧しさというか、そういう感じじゃない人たちの世界に何かがあるんじゃないかとも思った。

キューバは物質的、経済的に貧しい人たちが多かった。

信じられないような事を言ったり、やったり。嘘をついたり、騙したり。

貧しさというものが作り出す、内面の歪や、いやらしさも見た。

でも、よく考えると、私が若かった頃いたよな、そんな女性たち。キューバ人だからじゃなく、似たようなもんだと思った。

 

一部のキューバ人を見ていて、どうしてあんなにアグレッシブなんだろうと。どうしてSNSであんなに、よく見せようとするのだろうとか。

ある日思ったの。

抑圧された貧しい暮らしが根底にあって、そこから這い上がりたいというのがあるのかもと。

私は、なんか違う。価値観が違う。

 

経済的に貧しい人たち。

貧しいと、慎ましやかに暮らしたり、物を大事にするのかと思っていたら、持った事がない人は、「持ってみたい」という欲求を抱く。

抑圧された気持ちが欲求を生む。

それをまた静かに抑え込む人もいる。

頭では今の暮らしを受け入れようとするけど、心がついていかない。

そこも、私のいる場所(クラス)じゃなかった。

俗に言われる、成功や豊かさを追い求めている人たちがひしめくNYで、成功者とつるむのも私のいる場所じゃなかった。

上でもなく、下でもなく、自分に合った「クラス(階級)」というのがあるんだとやっと解った。

 

日本は昔は、貧しかった。

1980年代からやっとその抑圧からの突破口が開きだした。そうして、バブルが来た。

日本ではさとり世代の次は、Z世代というらしい。

彼らは、物欲があまりないらしい。

生まれた時にすでに日本はある程度裕福で、物がいっぱいあって、物があっても満たされない事を経験しているのかもしれない。

 

私たち世代は、お金や物を持つことが豊かさだと思ってしまう何かが根付いているのかもしれない。

「何かが足りない」

そういう思いが根付いていて、抜け出せない人たちは、どれだけお金があっても豊かになれないのかもしれない。

 

世界でいちばん貧しい大統領-と言われる、ウルグアイの元大統領は、「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」といったそうな。

 

多くの人は「豊かさ」の意味、定義をきちんと持っていなかったんじゃないかと。

その定義は、みんな違うかもしれない。

だけど、「足るを知る」「在るものを大事にする」「当たり前が当たり前じゃない事に気づく」。そう心の奥から感じられて、そう考えられるようになった時に、「豊かさ」の定義が変わるような気がする。

持ってみて、実際にそれが自分に必要か不要かという経験をしないとその人の中で生まれない定義かもしれない。

だから所有してみる事、自分の身の丈より上のクラスに脚を突っ込んでみる事(下もしかり)、世間や社会から認められる事、も必要な「経験」なんだと思う。

 

最後は、身の丈に合った、自分が選んだであろう今生の状況の中に、その人にとっての本当の豊かさがあるんじゃないかと。それに気づけたら、幸せなんじゃないかと。

昭和40年代の古い団地の4階を清潔にし、整え、風と陽の光がとても気持ち良くて、毎日自分好みに美味しいコーヒーを淹れ、草花をいじりながら暮らしている私は、そう、今、考えてる。今はね。

 

毎日、「豊かだなぁ」「幸せだなぁ」と・・・。

今はね。先は解らないよ。

 

私の場合は、家族との濁流の様な川が、穏やかになった事で、今までなかなか持てなかった心の平安の様なものを得られたのかもしれない。

足りなかったもの。欠乏していたものが得られただけで、それは、物でも、承認でも、お金でも、今の様ななーんにもない穏やかな日々も、同じなのかもしれない。

だから、今はね、なんだ。

先にはまた何かが足りないと感じ、欲するのかもしれない。

 

===

今日の写真は、水耕栽培に挑戦中。ミックスレタス、ベビーリーフミックス、ルッコラ、近所の農家さんのねぎのカス。です。

今日はコーヒーの焙煎もしたよ。私好みの浅目に焙煎。