朝、目が覚めると「幸せ?」と、自分に訊く。

幸せに浸っている、訳ではなく、「私はこれでいいのだろうか」という疑問から。

応えは、いつも「幸せ」と来る。

「幸せって何?」

と訊くと、「あなたが貴女であること」と聞こえる。

このやり取りを2カ月くらい続けてる。

「幸せ」ってなんだろう、と考える。

 

お金?

名声?

認められる事?

家族がいる事?

愛される事?

 

私は孤独。だけど、私が私で居られることが、そんなに幸せな事なのか?

ネットで「幸せ」の定義を探す。孤独な私が幸せと感じているのは勘違いじゃないか。

毎日、そんな問答をしてる。

 

何に幸せと感じるのかは、人それぞれなんだと思う。

その人にとって欠如しているものがまず満たされることで、満たされた感じがあり、それが幸せに感じるのかもしれない。

でも、それが当たり前になった時、ある事が当たり前になった時に、次の欲求が顔を出す。

もしかしたら、その魂が今生で何を経験したいか、学びたいかという目的にも関係するのかもしれない。わからない。

 

孤独が辛いか。というと、心地がいい。

毎日、自分と一緒に暮らしている。

とはいえ、昔は孤独が辛かった。

多分だけど、「孤独」というのを受け入れて、その中にある利点の様なものを私は堪能できているのかもしれない。

気楽である。

 

私は、誰に気兼ねする事もなく、誰に心を殺されるわけでもなく、私は、私で、(最低限の人としてのルールを守りながら)勝手に生きている。

誰に評価されることもなく、誰かに認めてもらう事もなく。たいしてお金もないが、たいして欲しいモノもない。小ぢんまり、静かに暮らしてる。

誰かが何かを与えてくれるのではなく、自分の中の核の様なものが自分の足でちゃんと立ってる。

自分を自分が受け入れる。

 

いや、わからない。もしかしたら、23年後に孤独にへきへきしているかもしれない。

何が幸せとか、人間が何だとか、そんなに簡単に正解があれば、多くの人は幸せになれているはずだし、何百年も、何千年も、ぐるぐる哲学してない。はず。

 

理想の幸せと現実の幸せは多分違う。

現実の幸せには、「そのひと」の生まれて来てからの歴史、物語が関係すると思う。たぶん、その人の魂の歴史も。

だから、誰かの幸せの形を真似ても、幸せにはならない。←これは確実。

だけど、「誰かの幸せの形」を真似てみて、「違ったな」と感じるのはとても大事で、深い部分で「違う」という理解を自分自身がするには「誰かの幸せの形を真似てみる」という経験はとても役に立つ。経験をしないと、深い部分での理解は難しい。

 

よくスピ系のヒーラー系が「あなたは○○をする為に生まれて来たんですよ」とか、いうかもだけど、これ、99%当たらないし、当たったとしてもそんなに簡単に答えを貰っても、その問題の解き方は学べない。

だから、自分で「経験」して、「考えて」その人だけの、その人が納得する答えを自分で出すしかない。

 

「私が私であること」が正解の「幸せ」の定義なのかは、解らない。ひとつの要素でしかないかもしれない。

だけど、欲張って色々欲しいと思う人ほど、満たされない。

今ある幸せに感謝しよう。

 

「誰からも心を殺されない、殺させない」。殺されそうになっても、私はわたしを受け入れ、どんな他人より、私と長く歩いている。そんな他人より、私はわたしをよく知っている。

他人がいう事なんて無責任だし、無責任でいいのだと思う。

誰かの言葉に責任や重きを置くのは、自分がなかったり、依存でもあると思うのね。

「私がわたしで居られること」は、もしかしたら私にとってはとても幸せな事なんじゃないかと、2020年の51歳の私はとりあえず思う。

以上。

 


今日の写真は、外のバジルと大葉だよ。

ダイソーで買ったちりめん大葉の種。なんか葉っぱがすんごいデカくなるんだよ。豚のスライスをぐるぐるってやって天ぷらにしたら、美味かった。

バジルは剪定して、第一弾のペースト作って冷凍しました(*^-^*)

この子たちをいじっていると、近所のおじさんやおばさんが、「大きくなったねぇ」と、声をかけてきます。

比べると、すごくおっきくなったでしょ。