適度に必要なものや好きなものがあり、快適に暮らしてる。
全くミニマリストとかではないが、無理にとか、スタイル的にミニマリストを目指してみる人もいると思う、それぞれの勝手だが、適度に、自分に管理把握が出来る程度の物の中で暮らすと楽だなぁと思う。
死んだら何も持って行けない。
若い頃からそうは思っていても色んなものを持ちたくて持ってみた。この歳になると、「死んだら何も持って行けない」というのもよりリアル感が増し、多分な自分の寿命であろう20~30年後を考えながら暮らす。
20年なんてあっという間。
愛用しているティファールの電気ポットや、フィスラーの圧力鍋、ブラウンのハンドミキサーは20年近く使ってる。厳密には18年くらいかな。
今も現役で活躍しているそれらの物を見ると、20年なんてあっという間だと実感する。
上を見たらキリがない。だけど、快適に暮らしたい。
「快適に暮らしたい」その程度の事である。
「自分にとっての快適さ」
それは、誰かと比べたり、競ったり、遅れを感じたりする事ではなく、その答えは自分の中にしかない。
誰かと比べたり、競ったり。自分に何かが足りないと感じていると、物で自分の何かを埋めたいと思ってしまう事もある。そういうのが無くなると、欲しいものが減る。
「欲しい」という欲求を抑えると、我慢していると、それはどこかで破れる。反動が出たりする。
欲求を抑えるのではなく、削ぐことが出来たらいいんじゃないのかと、最近は思う。
得る事よりも、削いでいく事。
ため込んでいくより、手放していく。
想いも、物も、欲も。
50歳を過ぎたら、そんな風に、自然となって行った。なれた気がする。
残された時間はそんなに長いわけでもない。
欲張っても、消化できない。
削いでみると、既にあるものを大切に出来る気がする。
数年前に、新しい友達が欲しいと思わなくなった。
新しい友達が増える事で、古くからの友達が引き出しの奥に入ってしまう。古くからの友達すら大切に出来ていない、手が回ってない私だから。
私は自分勝手すぎだけど、何十年も経っても、そんな私を好きだと思ってくれてる友達が結構いたりする。
何千人と人に出会って、何百人と「友達」になった人が居るんだろうけど、そんな風に思ってくれる友達はそんなにいる訳じゃない。
有難いと思う。有難いと思いながらも、なかなか連絡をしない、マメじゃない私。申し訳ない気もちょっとあったりする。
結局、何百人もの「友達」は削いでしまったのかもしれない。
相手も、私を削いだのかもしれないし、もともと大して意味が無かったのかもしれないし、互いに利用しあったり、何かをとりあえず埋め合ったりしたのかもしれない。
とはいえ、色々な人に出会う事、いろんな経験をする事はとても大事だと思うし、友達も色んなタイプを持ってみないと、色んな人と関わらないと解らない事が多い。自分の事も、人の事も。
結局はどんな変わり者であっても心で感じあえる人、互いに好きだと思える人、妙に縁がある人以外、違和感や無理がある人は削いでしまうのかもしれない。
削いでしまうと、削ぐ事が出来ると、色んな事がシンプルになり、大切なものが見えやすくなる。
暮らしも、物も、人も。
欲張っても消化できない人生の時期に来てるじゃないか、と、最近は思うのよ。
得る事よりも、削いでいく。
自分には不要だと解ったものは手放していく。
欲を抑えるのではなく、削いでいく。
それで、既にあるもの、既にいる人を大切に出来たらいいなと。
色んなものを削いで、シンプルにしたいなと。