先日ある知り合いが、動画でちらっといじめにあっていたという事を言っていたの。

なんか、いろいろ思い出した。

私は、まぁ、けっこう、いろいろ、いじめには遭って来たと思う。

  • 学校:小学5-6年
  • ある日本のジャズミュージシャン

大人になると、いろんな事が理解できる。

大人といっても、しっかりおばさんの域の大人ね。40代以降。

彼らは「いじめ」た、という意識ではなかったかもとも思う。それぞれの心に、いろんな事情があって、何かを守るために必死だったのかもと、今は思う。

 

姉:

二つ違いの姉は、やっぱりきょうだいにありがちな親や周りのアテンションが私が生まれたことで突然自分以外に向けられるようになったことが、きっとショックだったのだと思う。私が生まれたのは彼女が2歳半でしょ、それまでに安心や承認といったものが十分に満たされて安心できてない状態で私が生まれたのだと思う。

子供のころを思い出すと、よくもまぁ、あんなひどいことをよく言っていたなぁと思う。

大人になると、質ややり方は変わる。ひどくなったというか、難しくなって、どうしようもなくなったと思う。私が彼女からほぼ完全に逃げ切れたのは、5年位前。家族みんなと離れるしかなかった。

悲しくない訳じゃないけど、これでよかったと思う。

私の中では多分殆ど整理はついているんだけど、実際に会うと、何かやられると、何かの節に、何かのはずみで、衝動で、私は彼女を殺してしまうかもしれない。

姉が酷いとか悪い、という事ではなく、たぶん、親が心に抱えていたものが子育てや家庭に影響したのだと思う。じゃぁ、親が悪いのかというと、22歳で父親になった父を、すげぇもうおばさんになって理解力がある程度できた私には、責める事はできません。

 

小学校:

これ、けっこうひどかった。

体中があざだらけになるほど、床の上でたくさんの足に蹴られたりしてた。それも男子になんだよ。標的にされて、飛び蹴りとかも。ありえない事だと思う。

女子が面白がってたり、嫉妬で虐めてたわけじゃないんだ。嫉妬されるにも、私はマジでデブで不細工だったから小学女子に嫉妬される要因は少ないのよ。

37歳くらいの時に、離婚して、ニューヨークに3か月居たのね。その時に、ニューヨークに友達ももうそんなにいないので、部屋でヨガとか瞑想(迷走)を毎日やってたの。そしたら、小学校で虐められてた時の感情とか、記憶がグワーッって出てきて驚いた。その出てきたものをどうやって処理するか。当時はエッセンシャルオイルとはまだ出会ってなかったので、いろいろあの手この手でのたうち回りました。

今の感情解放の私の細胞の中に残る記憶をどうにかするという私の独自なメソッドは、この時の経験が大きいです。

男子たちにどうしてあんな風にごみのように蹴られていたのか。

それまで何度も思い出すことはあったの。何度考えてもあの男の子たちに私に対しての意味のある悪意はどうしても感じられないの。

なんか流れで。

そんな雰囲気で。

なんか面白がって。

という事で、彼らは私を虐めたと、傷つけたという事は記憶に殆どないだろうなと。

 

私が虐められていた原因は、その時の男の担任のせいだったと気づいたのは、40歳を過ぎてから。それは、この後に書く、日本のジャズミュージシャンとのことがきっかけで解ったの。

いったん、小学校でのいじめは置いといて、そのジャズミュージシャンとのことを書くね。

 

日本のあるジャズミュージシャン:

私は、中学生のころにそういう音楽が好きになって、20歳で音楽とは全く関係ないことでニューヨークに行ったの。で、そこでひょんなきっかけで歌を始めたの。

その後、時々日本にも住んでて、ひょんなきっかけで、珍竹林のままの店で歌うようになったの。そのくらいから地元のジャズミュージシャンともちょっと関わるようになったのね。

26歳くらいから、アメリカ人の人たちのバンドで歌うようになって、30歳でアメリカの老人ホームへのプロジェクトをしたの。戦争時代の歌のプロジェクトね。

その資金つくりのためのコンサートをする事になって、以前から知っていたあるミュージシャン(Mさんとしよう)に相談したら、協力してくれると、笑顔で。ニューヨークで作っていたデモを聞かせたら、彼は「いいね。Yさんにも相談しておくよ。」と言ってくれたの。Yさんはその人が慕っていたジャズミュージシャン。その数日後「あれはひどい。あんな恥ずかしいもの」と言われたの。多分、そのYさんがなんか言ったんだと思う。

まだ、わたし、ちょっと若かったから何が起こったのかよくわからなかった。今ならわかるよ。その人は、自分の感性より自分が慕っている人、自分より優れていると思っている人が言ったことを信じたというか。

Yさんはだめだけど、Mさんはコンサートはやってくれるとのことだった。

Angels Swingのこのプロジェクトはどんなミュージシャン(一流もそうじゃない人も)も200ドルなので、それでやってもらえないかというと、「最低でも4万もらわないとできない」と。

地元にはそんなにジャズミュージシャン居ないし、狭い世界。4万払うことにした。

会場との打ち合わせの時にも一緒に来てくれた。私が、考えを言うと、「解らないくせに、恥ずかしいからだまっておけ」と言われた。

 

ニューヨークでレコーディングをしたとき、ベースのレナードがスキン(私の恩人)に言われたの。

Seina、このセッションは君がリーダーなんだ。君がどうしたいのかはっきり言わないと、ぼくたちは演奏できないよ」

いつも優しいレナードが、この時は厳しく私に言ったの。不安もあるし、大大大先輩な彼らに任せてついていこうと思っていた私。それは大きな間違いで、自分のレコーディングに、私が責任を持たないといけないんだと。それは私がレナードから学んだとても大事なことだったの。

だから、自分のプロジェクトを人任せにしてはいけないし、誰かがやってくれるとか、やってもらってはいけない。自分がリーダーで責任を持たないといけないと思っていたけど、日本、私の街は全く違った。

 

そのコンサートの後、いくつかの仕事をいただいた。そのMさんも一緒だった。

Mさんは、私が歌った後にはいつも、「どうしてあんな歌い方をするの」とか、「どうしてあんな音使うの?」「ジャズじゃない」と、いつもそういうことを言ったの。

それがトラウマになったのか、歌った後に、いつも誰かに何か言われるんじゃないかと。歌っているときもいつも不安だった。

あんなに好きだった「歌うこと」が苦しみになったの。歌おうとしても、胸がくーーーっと、苦しくなるの。

私は、無邪気でちょっと馬鹿だから、Mさんも人の良いところもあり、そんなことがあっても、まぁ親しくしてた。けど、何が原因だったか忘れたけど、喧嘩じゃないけど、離れた。

それからしばらくして、周りの人たちが仲直りしたほうがいいという(狭い街なので)。仕方ないので連絡をして会うことにした。彼は「昌子ちゃんの事を思って」「昌子ちゃんの為に」という言葉を連発したの。その時に、「○○ちゃんの為に」、という言葉は何かがおかしいと思うようになったの。妙な言い訳にしか聞こえなかったの。

 

その後、彼は後援をしてくれる人がついて、ニューヨークでレコーディングをしたらしい。その時のドラムがグレイディテイト(私の恩人)だった。

それから、10年くらいたったある日。2011年、私がお手伝いしてたお店(スナック)にMさんが来たの。ママと友達でね。

 

彼は「しょうこちゃん、久しぶりだね、どうしてたの?歌はやってるの?」と笑顔で言ったの。

私もある程度笑顔で「あれから歌はほとんどやっていません。だけど、2008年にお世話になったベーシストのおじいちゃんの居た老人ホームで歌いました。その時は、ボブクランショウがベースをやってくれました。それからもボブにはよくしてもらっています」

話をしていると、血相を変えて「ボブ、ボブ、気安く言うな!!」と怒鳴ったの。

私は一体何が起こったのかわからず、泣きだして感情的に言い返した。

 

それから数日して、冷静になった時に、あの世代の彼にとってジャズが何だったのか。ボブは彼にとっては神のような、あこがれの存在だったらしい。

グレイディテイトも、そうだったから、レコーディングで彼を選んだのだと、わかった。

男が、あこがれ続けて、人生かけて、ジャズをやっていたのだと思う。だから思いも強くあるのだと思う。

無邪気な私は、そんな事も解らなかったし、男の嫉妬の怖さを思い知った。

その時に、どうして小学生の時に、あんな理不尽な、意味がよくわからない虐めにあっていたのか、やっとわかった。

担任の先生が仕掛けていたことを。

 

小学校に戻る:

前にも書いたと思うので。またか。かもだけど、

私は小学生の間に3回引っ越してるの。ウチはお店をやってて、両親は転校をさせるのはかわいそうだと思っていて、そのお店に住民票を置いて、転校をさせないようにしてたの。

4までの隣の校区の時は歩いて行けてたけど、小4の途中でもうちょっと遠くに引っ越したの。そこからは通えないので、父が毎朝車で学校のそばまで送ってくれてた。

父は車道楽な人でね、いつも最新のすごくいい車に乗ってるの。当時すごい人気だったトヨタのソアラってあるんだけど、いの一番に買った。買い替えた。小学5-6年の2年の間に、車は3回くらい変わったと思う。

先生はちょっとおんぼろな軽自動車に乗ってた。いつも、何かのふしに、「なぁ、白石。おまえはいいな」と、嫌みっぽく言ってたのを思い出した。子供のころには、嫌みっぽい感じも解らなかったよ。

 

先生でなくてはいけない体裁と、人としての何かがせめぎ合って、あんなことをしていたのかもしれない。

20代のころ、ニューヨークから一時帰国をしていた時に、母がその担任からもらった手紙を見せてくれた。

ひどい手紙で、「お宅の娘さんは太りすぎで、肥満のため、思考や行動が鈍い。それは肥満で脳にまで脂肪が回っている。肥満児学校に行くことを考えてくれ」そんなことが書かれていた。

母は、それを笑いながら見せてくれた。

 

ニューヨークで、その話をバイト先で駐在員のお客さんとしていたら、その人は怒り出したの。

「ひどすぎる。そんな事が許されるのか。許せるのか」と。

その時に、この先生がおかしかった事に気づき始めたの。22歳くらいの時。

笑いながら手紙を見せた母に対しても、その人は怒ってた。

 

小さなころから、虐められていた私。存在を否定されてきた私は、自分に価値があるなんて思ってないから、許すとか、許さないじゃなくて、それが当たり前というか、受け入れていたのだと思う。

以前、スピ系のある女性と会う事になっていたんだけど、彼氏に殴られて血が出て病院に行ったからと断りのメールが来たの。彼女は当たり前のように、大したことじゃないように、少し笑った感じで、軽く書いていた。

彼女は、母親から虐待を受けてきたらしかった。彼女は、そういう扱いを受けることが、身についているのだろうか。彼氏から血が出るほど殴られることは、彼女が受け入れていることなんだと感じたの。

私は虐められることを許していたというか、受け入れていたのだと思った。自分には価値がないから、そんな扱いを受けることが当たり前だと、心のどこかで思っていたのだと、気づいたの。それをはねのけたり、無視できるような自尊心はなかった。

そこから、よりいっそ、オイルや自分と向き合い、いろいろやった。

 

でもね、最終的に、強力に私の傷をいやした、というか、私の自尊心を強くしてくれた人は、珍竹林のママだったと思う。

どんな時も、何があっても、彼女は私のことが好きだと言うの。私が、馬鹿にされたような目に遭った時、ママはすごい剣幕で怒ったの。「あんたがこんなに馬鹿にされて、その女の事、許せるわけがないでしょ!」。私は、ママにとって、価値のある、大事な人なんだと感じたの。

母が笑いながら手紙を見せてくれた事にあの駐在員のお客さんがどうして怒ったのか。

母を恨んでも仕方ないし、母自身がいろんな事情があって育ってる。よく頑張って育ててくれたなぁと思う。私はそういった経験から、たくさんのことを考え、悩んで、今の私が育った。そんな経験があるから、今こうやって、こんな仕事ができてるのだとも思う。

 

最近、もう一つ気づきがあったの。

冒頭に書いた知人の動画を見てた時に、どうして、いじめとかするんだろう、おこるんだろうと、ふと考えたの。

虐める人は、きっと、その人の中の何かを抑えてきたり、殺してきたりして歪んでしまって、そのストレスがいじめとかになってしまうんじゃないかと。

いいひと、いい子でありたい自分と、そうじゃない未熟な自分。そういうのがひしめき合って、歪を生んだり。そういうのもあったんじゃないかと。

姉も、そのミュージシャンも、小学校の担任もそうだったんじゃないかと思うの。どの人も、いい人であろうとする思いとか理想のようなものと本当の自分とが拗れた歪みがあったと思う。

 

人の心の歪みは他人がどうにかできる問題じゃないと思う。それはその人(や家庭)の問題で、他人がどうかできる問題じゃない。もしそういう人が近くにいたら、離れる、逃げる、がいいと思う。

でも、自分の中に、何かの歪みがあれば引き合うのだろうし、自尊心が欠如していたら虐められることを許す、というか、受け入れてしまうのだと思う。それは、ある意味需要と供給があってるというか、プラスとマイナス、SとN、凸と凹。

好きで虐められているわけじゃないのだろうけど、虐めているほうも好きで虐めているわけではないかもな場合も少なくないと思う。その人の中にある歪がストレスとなってそういう形になってしまうんじゃないかと。

ひどい虐めは、小学5-6年の間だけ。だからあの先生がおかしかったと思うよ。

 

離れる・逃げる:

中学からは、県外の私立中学に行った。逃げた。

姉からは、数年前にやっとすっぱり離れた。彼女が欲しいのは、親のアテンションと愛情。だから家族みんなと離れた。前は辛かったけど、今はもう大丈夫。それと引き換えに得ることができた「自由」と「穏やかな日々」を享受してる。

人は、追い込まれたら、逃げるんだと思う。私は逃げた。

逃げる(離れる)ときに、その決断をするのは、自分。自尊心の弱さ、自信のなさで、そこから逃げられない、離れられない場合も多いと思う。子どもや未成年(保護者が必要とされてる年齢)なんかは、自立が難しいわけなので、なかなか選択肢がなく、環境要因を受け入れざるを得ないケースも多いと思う。「逃げたらいけない」「逃げたらやっていけない」「逃げたら何か言われるかもしれない」などなど、の考えが強くあってもなかなか動けない。

私は、学校で体中があざだらけになるほど虐められた。

でも、私の中に虐められることを受け入れる何か、受容体みたいなのが家族の中で育ってしまってたの。だから、そういう家族には救えない。逃げるという選択は、私がするしかなかった。親は、悪気があって私の自尊心を壊していたわけじゃないし、子供は「大切」だと思っていて、責任感は強かったので、経済的には厳しい時期だったけど私が県外の私立中学に行くことを一生懸命サポートしてくれた。

 

音楽に関しては、逃げることで、世界が広がった。

地元が苦しいからそこにいることが出来ないから逃げてしまう私だった。

結局は、キューバも家族から逃げて行った先。そこで、私の音楽や世界がまた広がった。

追いつめられたら、苦しくなった、嫌だったら、離れないと心が死んでしまう。誰も自ら逃げたくなるような苦しい目に遭いたくないとは思ってるだろうけど、そうならないと居心地がいいとなかなか動けない。だから追いつめられることも悪くない。

本当に強いメンタルがあれば、どこにいても、どんな環境でもやっていけるかもだけど、自分が壊れるのであれば、ささっと、離れたほうがいいと思う。我慢を続けると、自分を殺し続けると、殺され続けると、心の歪みが大きくなり、そのストレスで誰かの心を殺してしまう。そうやって、いじめが起きてしまうんじゃないかと思うの。

日本は特に、我慢とか、自分を殺すことをする、させる、から、陰湿ないじめとか多くなってしまう気がします。

 

虐めるも、虐められるも、その人の中の歪みがそれを成立というか、させている気がするの。感情解放の大きな目的は、心の歪みを修正するというか、修正というより、なんだろ・・・修正するには、いろいろ解体しないといけないでしょ。解体して、基盤を整備するという感じかな。

虐められる側は、徐々に、自尊心が育って、意地悪されたり、変な事されると、やってるその人がおかしい事に気づいて、離れていける。

虐める側は、自分に誠意をもって正直に向かい合ううちに、自分の弱さや歪みに気づき、そのうち人の事なんてどうでもよくなる。

たぶんね。

私は、そうなって行った。

 

毎日、ピアノとか、音楽の調べ物でほぼ終わってしまっていますが、感情解放コースの受付、10月には再開したいとは思っています。←「は」が入っている。のは、気持ち的にはそうしたいと思ってる

 

silviaritaによるPixabayからの画像