きづくと、ひと月近くブログアップしてない。ね。

なんこか書いたけど、うまく書けなくて、アップしてないとか。でも、毎日、まぁ、結構いろいろ、考えて暮らしてはいます。で、うまく纏まらなかったり、整理できなかったり。

相変わらず、あまり人とは会ったりしてない。人に会うと、いろいろ情報が入ると、また頭の中が散らかるんだ。

月に一度、ママが遊びに来る。

ママの電話が鳴って、ママが話しているのを聞きながら、ママは偉いなぁ、とか、思う。

偉いというか、面倒な女の人たちっていうか、そういうのを適当にうまく、対応する。

「ママ、偉いなぁ~(人にうまく合わせて)。私には無理。ストレスになる。」

「人は人、自分は自分よ」

へー、と思った。

ママは、子供の頃から親やおじいちゃんおばあちゃんにそーとー可愛がられたらしい。

この「そーとー可愛がられた」らしい。というのは、受け入れられたとか、尊重されたとか、そういうのもあると思うのね。

この、尊重とか、受け入れられたとか、愛情を受けるというか、そういうのがある人と、無い人はすごく違う。無い人の多くが、否定されたり、親の価値観を押し付けられたりと言う感じかな。

ある人と、無い人、は別の世界の生き物というか、見える世界が全く違う。

で、ある人、は、「自分」という存在に肯定感を持てるのね。そうすると、自分は自分、人は人と思えるんだと思う。

で、否定されたり、親の価値観を押し付けられて受け入れた人とか、他者と比べられた人は、自分が不安になる。そうすると、人の事が気になる。自分と他者の境界線があいまいにもなる。

 

でね。これは、変えることが出来るか。とか、この数日考えてた。

ある程度は、結構変えられるというか、変えるというより、他者との境界線を持つことが出来る、というか、境界線に気づくことが出来て、その先に、境界線をしっかり持つことが出来るか、というのになるんだと思う。

自分を考えると、境界線には気づいていて、出来る事、出来ない事、その問題は誰のものか、私は私、人は人、違う。というのは、しっかり解ってる。解っているけど、境界線をしっかり持てているかというと、不安になったりもある。

と、今書きながら、日本にいる日本人同士だと、同じ価値観、だと、思い込んでいて、それ(自分の考えが暗黙で)が通じると、勝手に思いこんでいたり。ってあるかもしれない。これ日本特有というか。海外に居ると、言わないと通じない。育ったバックグラウンドや文化、習慣、価値観、宗教、歴史、価値観が違うから言わないと通じないし、言っても理解されない事はよくある。

そうすると、人は人、自分は自分と思わないと、というより、人は人、自分は自分でしかない。

 

海外に居ると、通じない事、理解されない事だらけだ。でも、「違う」としっかり認識しているから、同じ価値観を共有しているとはそもそも思ってない。

異国に居ようが、母国に居ようが、わたしは、まぁ、1人で過ごす。思い返してみると、異国での外国人との交流が、自分は人とは違う、人は人、自分は自分というのを理解せざるを得なかったのかもしれません。

で、外国の場合は、相手も私が自分たちと違う。育ったバックグラウンド、文化、習慣、価値観、宗教、歴史、価値観が違う者として、「違う者」という前提で接点を探して、時々合う、共感できるものに喜んだり。だから最初から、「境界線」がしっかりあって、その境界線を越えてとか、隙間とか、コミュニケーションをとれる方法を模索する。

でもさ、日本って、言わずに解ってもらえる。解っている、というのが、前提だったりするのかも。それが、自分の考えが(共通する共有できるもの)当たり前という前提があるのかも。

 

まぁ、結構否定されて育ってしまった私は、今は、自分がある人と、人からは見えても、根っこでは弱い部分もあり、それもありでの私自身の境界線があいまいな部分もあり、人との付き合いが苦手だったりするのかもしれない。疲れる事もよくあるので、気づいたら、人に会わない日が続く。この数年は、結構顕著だと思う。

人は人、自分は自分。だと、深く理解できたことと、退屈や寂しさを紛らわす必要が無くなった。誰かが自分の存在を認めてくれなくても、誰かによって自分の存在が(自分に)感じられなくても、私は私。私の中に、私がいる。

いろんな人たちと上手く、交流したいとは思うけど、あまり得意じゃない。得意じゃない事は無理したくない、だからこれでいいんだと思う。私が私の中にしっかり居れば、気に入ってもらう必要もなく、受け入れてもらう必要もない。

で、どうして得意じゃないとか、ストレスになるとか、ってなるかと考えると、育ったバックグラウンドが性格を作ってしまったのかもなと。で、それは根深い事で、無理に変えようとすると、自己否定にもなるし、そんな自分を自分が受け入れておけばいいんじゃないかと。

受け入れられたいとか、自分の外に居場所が欲しいとか、寂しいとかで、自分が苦しくないのなら、それでいいんじゃないかと。

でもさ、若い時は、そういった満たされなかった事を求めて、いろんな経験をしてもらいたいと思う。「経験」をする、重ねることでしか得られない理解や納得があるんだ。

そういう満たされなかった事があるから、いろんな人に出会うしね。そこに人生の宝とか持てたりするしね。

最近、ブログがさらさらっと書けなくなったひとつの理由は、人それぞれ、みんな違うから、書いたことをどう受け取るかもみんな違って、特に年代では、人生の段階が違うから、伝えたい事も違う。

まだ、頭の中がすっきり纏まって、文章に出来ないので、まだ暫く、こんな感じで、ぐるぐる考えるんだと思う。

ママは、否定されて育った人の事が理解できないらしい。

否定されて育ったら、きつい。苦しい。だからいろんな事を悩んだり、考えたり、で、今の自分がある。私はそういう事を考えるのが大好きだし、そんな自分や、自分の人生が好きだと思う。面白い(Interesting:興味深い)と思う。


今日の写真は、この前、ママと団地内を散歩して撮った写真。

四季折々のお花とかが咲くから、ママ、団地の散歩が好きなんだ。