今日は、最高温度26度。湿度も低く、気持ちのいい夏日。
近所のスーパーで茄子が特売なので、団地内の緑を抜けてスーパーへ。
iPhoneのSpotifyからは、キューバの古くてダサい感じの音楽(民謡とか演歌という感じ)。なんでそういうのがチョイスされたのかは不明。
ふと、「キューバの人たち、優しかったな」と。
親しかった人に限らず、キューバは優しい人が多かった。
適当に優しくて、当たり前に寛容(もちろん、そうじゃないな、と感じる人たちもいる)。
弱者や女性に優しいのは当たり前。
私は寛容か?
私は、彼らのように寛容な優しさを持っていない気がする。
どうして、持ってないんだろう・・・・。
どうして・・・。
自分の家族を思い出す。
しっかり躾けようとしたし、厳しかったし、正しい事を教えようとした。
優しかったか?
寛容だったか?
「優しさ」よりも、「正しさ」が重要だったように思う。
「優しさ」や「寛容」さは「甘え」だと。
正当さ、正しさが、自分を守る術でもあったと思う。
今思うと、その正当さや、正しさは、父や日本や世間の中の正しさだと思う。正しさを盾にして自分を守り、正しさを鉾にして相手を攻める。そういう術を身に付けて、戦い、自分を護ってきたと思う。
私は「正しさ」>「優しさ」な人だと思う。
「正しさ」という「武器」を身に付けないと自分を護れない。生き残れない。そんな環境だったのだと、自分を納得させる。
優しさや、寛容さって。完璧でなく、人間の弱さとかを、包むというか、どこかファジーに受け入れる。そういうものがある気がする。
正しさや正確さ、厳しさではなく、緩さやいい加減さというか。そういうファジーさがある気がする。
そのファジーさは日本では、正しさや正確さで責められたり。余裕のない、寛容さに欠ける。
なんで、そんな風になったのだろうと考える・・・。
正しさや正確さ、良いとされる対象と、比べたり、比べられたり。競争があったり、集団から孤立しないように(日本は農耕稲作とかで、集団の中で生きることが大事で、そういう人が遺伝子的に生き残っているという説もある)とか。
そういえば、キューバでは学校とかでの虐めはないとか、聞く。本当だろうか・・・。
いい加減で腹立たしい事は山ほどあった。
そのいい加減さ、ファジーさが、他人への寛容さにもなっているのかもしれない。
キューバではよく泣いた。
腹立たしい事や、通用しない事、出来ない事で悔しい事もいっぱいあった。
でも、涙が出るのは、優しさに触れたときだった。
今でも、彼らの優しさを思い出すと涙が出る。
心の奥の何かに触れて、涙が出る。
それは、頭や、理性、正しさでは処理できない。
==ここまで書いて、数日放置===
数日前、ダラダラとみていたYoutubeで、ブラジルの女性刑務所のミス&ミスターコンテストの動画があった。
遠くの州から応援に来たお母さんの所で、なんか、泣いた。(結構後半)
なんで泣いたんだろうと・・・。考える。自分を感じ取る。
正しいとか、間違えとか、じゃなく、そのままを愛している。間違ったことをした恥ずかしい娘というより、そのままを受け入れてると言う感じがしたからだと思う。
ラテンアメリカの国々は、色々問題は多い。ラテンアメリカの国々に比べると日本は、奇跡のように安全で、政治も「不満」はあっても「腐敗」とかではない。日本で生まれ育ったことはとても運のいい事だと思う。それでも、欠如したものはある。(日本が嫌ながら、他の国に行くこともできるし、日本国籍を棄てて他の国の国籍を取得することも可能)
「正しさ」で、自分を護ってきた。「正しさ」を鎧のように身に付けてきた、のかも、と。気づく・・・。
「正しさ」<「優しさ」な人になりたい。「正しさ」という鎧を「身に付けてきた(自分の一部になっている)」私は、今更、なれるのか?
そんな事を、この数日考えてた。
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写真は、団地内の緑。
新緑が気持ちいいので、時々団地内を散歩します。
↓団地の近くの川。ここも時々散歩します。