色々考えてみると、書かなくなった理由はちょこちょこちょこ色々あると気づく。

正しい事が、いい事、という訳でもなく、自分が正しいと思っている事は多くの場合、偏っているんじゃないかと。言い換えれば、誰かが「正しい」と言っている事が実はとっても怪しいというか、偏っているんじゃないかと。

そうなると、自分が「正しい」と思っている事を書かなくなる。もともと絶対正しいという書き方はしないように心掛けていはいるのですが、何かを書く時にある程度自分の考えを持っていて、それを自分である程度「正しい」と思っていないと書きにくい。だけど、自分が「正しい」と思っている、信じ(きっ)ていること自体が、怪しいんじゃないかと。

7月のメルマガで、ダニエラがデモで逮捕されたことを書きました(解放されました)。

あれは、そういう、「正しい」や「正義」と自分が思っている事は、色々な事情や世界の事を(多少ですが)解ってくると、それが正しい事や正義と決める事、判断することは難しい。

この数年、ニュースを見たりしながら(特に国際情勢)、「正義」や「正しさ」の怪しさ、そういったものの(イメージとして)利用価値(自由、民主主義もそういうのに含まれる。平和、もそうかも)を疑問に思っていました。

そういう言葉を使う時、「悪」を作り出す。

若いうちは解らない。私も解らなかった。正義、正しさ、といったものが、「よい事」と思っていたけど、対立を作り出す。

そうは思いながらも、ダニエラがデモで逮捕されて投獄されていた間、改めていろんな事を考えた。

結局、正しいとか、正義とか、悪とか、失敗とか、常識とか、常識外れとか、自由とか、自分勝手とか、無責任とか、責任感とか、それをジャッジすることは馬鹿げてるというか(だけどうっかりしてしまう)。

最近「論破」という言葉が流行っているというか、よく使われる。

20歳くらいの時、すごく頭がいいというか、弁が立つ友達がいた。その頃に思ったのが「正しいとか、正解とか、なんとかじゃなく、上手く相手を納得させられた人が「正しい」という事になるんじゃないか」と。

その後友達になった別の友人も、私としては決して正しいとは思わないんだけど、自分が正しいと思っているのか、論破するの。

結局、「正しい」とか「悪い」とか、って主観的な事も多いと思う。

それぞれの事情。正しいと主張する人にも何らかの事情があり、「悪い」ような事をしたり、(友達や仕事場で)悪者にされる人にも、何らかの事情があったり。

「人間」というものを深く考えていくと、正しいとか悪いでは処理できない事柄が多い。殆どがそうだと思う。

じゃぁ、なんで人は「正しさ」を主張したりするのか・・・。

「正しさ」って、武器になったり、盾になったりするんだと思う。

心の奥底では、対立と戦いを、したいのかもしれない。人間って自分が生き残るために戦うのが当たり前なのかも。凶器になったり、防衛本能みたいなのが働いたり。

対立をするため、(都合よく)作り出すために利用しているケースもあると思う(世界情勢とかはそういうの多いと思う)。

何かを「正しい」と思わせてしまうような記事を書いてしまう事は良くないなと、思いながらも、私の中にもそういう防衛本能とか、攻撃本能とかがないとは言えない。きっとある。傷ついてきている人や自己信頼感が弱い人、不安な人ほど、自分を守ろうとするために、そういうのがあるのかもしれない。

私たちが個人的にやってしまう「正しさ」の主張。そういう事は(世論の操作や世界情勢とかじゃなく)、人生の中の段階や経験でしかない事が多いんじゃないかと。若いダニエラが逮捕されたことでそんな事を考えました。

それは、ブログを読んでくださっている方たちもで、私の書いた言葉を鵜呑みにして、私の思って(しまっている)「正しさ」に便乗することなく、それぞれの段階で「経験」をしてほしいと思うし、多分それが一番の学びになるんじゃないかと。その経験、学びを邪魔するようなことは気を付けないとな、とか。

そんな場合に、誰かに影響を与える事の怖さってあって。特に、自分を信じられない人って自分以外に信じるものや人を探そうとしてしまう。そういう人たちにいかに影響を与えないか。一線ひいて、境界線を感じさせ、その人の頭で、その人の軸で考えさせることが出来るか。そんな事を考えてたりする。

書くことが少なくなった理由は他にもある。次の記事でも続く。

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写真はこの前、腐りかけたバナナを冷凍庫に突っ込んでいたので、それを使ってバナナマフィンを焼きました。生クルミと一緒に食べるとボーノボーノ。( *´艸`)