以前から、「繊細さん」とかいうのをネットの記事で目にしたりする。この前、クリックしてみると、「HSP」Highly Sensitive Personというのらしい。1990年代にアメリカの臨床研究心理学者のエレイン・N・アーロンという方が見つけたようです。
ネットで検索したり、いくつか本を見てみましたが(読んだり、ざっと見て途中でやめたり)、繊細ゆえに、傷つきやすくて、生き辛くて、鬱にもなりやすいそうで、気の毒な人が多いのか、「繊細さん」という弱いものを庇護するような気持ち悪い表現になってしまっているのかもです。そういう訳でか、「繊細さん」という言葉にはブルっとします。
前世で○○だったから、わたしはこうなの。
インディゴだから・・・。
等と言っている人たち、に似たものを感じます。「だから仕方ない」という「現実をと向かい合わない」言い訳の様で、こういう言葉を言われてしまうと、その先に言う言葉がなくなるんです。
「HSPだから」的な記事が少なくないと感じました。
前世でなんてあろうと、インディゴチルドレンだろうと、今世の自分と現実の要因を受け入れ、生きていくしかないんだと思うんです。
とはいえ、そういう人たちは、前世や魂といった現実的に認識できないものを生き辛さの理由にして、自分を庇護したいのだとも思うので、前世や魂の事を肯定してあげられたらいいのですが、私にはそれは難しく、現実的な解決法を模索する方向になります。
そういえば、女性(妻など)が話を聞いてもらいたい時、女性は共感してほしいらしく、男性は解決法を考えてアドバイスをするらしく、互いにすれ違うとかいう事を聞いたことがあります。
「繊細さん」」と言われる、HSPにもひとそれぞれで、いろんなタイプがあるらしいのですが、5人に一人くらいがHSPだそうです。
色々なテストをすると、私はかなりの高得点です。「繊細さん」と言われなくても、繊細でかなりきつかったし、面倒だったと思います。
反対に、いろんなHSPの傾向を見ていると、そんな風に感じたりしない人たちが5人に3~4人もいるんだと気づかされました。確かに色々話していても、ハートに(深く)響きにくい系の人とか結構います。音楽や絵画を見ていも、どうしてそういう事に気づかない(感じとれない)んだろうと不思議に思う事も多くありました。
感受性が強い、とは、若い頃に気づいていました。「私の場合、1の力で押されると、3の衝撃を受けるのはなんでだろう・・・ほかの人たちは問題なくやれてるのに、私は衝撃で動けなかったり混乱する」と、20代の頃に悩んでいましたし、結構苦しかったです。
問題は、そういった「持って生まれた」性質の為、その時点で20数年間、すでに、ハートでいろんな事を感じ、自分の性格や性質にかなり影響をして出来上がってしまっているんです。
子供の頃からかんしゃくを起こしたように叫ぶこともありましたし、火が付いたように泣くこともありました。私の場合は、ストレスや我慢の耐性がとても低いので、自分を殺して我慢することは地獄の苦しみなので、そういう環境になると、心が爆発して、どこかに逃げて行ったのだと思います。逃げた先がニューヨークで、自分がない(半分死にかけていた)私にはあの街はかなりきつかった。だけど、3年が過ぎたころ、「自分」が息をし始めた事に気づきました。
ニューヨークに居ればすべてうまく行くのではなく、そんなに敏感な自分は結局は自分とうまく折り合えないから生き辛いし、20数年の間にもうすでにボロボロで、歪んでもいたと思うので、マジできつかったです。でも、ニューヨークだといろんな人がいて、いろんなものがあって、いろんな刺激があって、私のようなちょっと変わった子が生きる「場所」や「隙間」のようなものがいろいろあったので日本の地方都市で暮らすより、楽でした。
いろんな人たち。今よく言われる「多様性」の中では、私も「多様」な中の一種でしかない。多様な社会が当たり前なニューヨークなので、私も一つの個性のある「個人」という感じだと思う。
それと、私には音楽があったから、幸せがいっぱいありました。特にニューヨークは、私が憧れた音楽が生まれたり育ったりした所。
私はジャズ、というジャンル(世界)に足をかけていたけど、私はジャズが好きなわけではなくて、1930~1940年代に作られた歌の歌詞の世界やその時代のポピュラーソングが好きだったの。その時代の歌が歌われたり、取り扱われていたのでジャズの世界だったのだと思う。私がちゃんとジャズを知るのは、アメリカに行ってかなり経ってから。あるとても有名なジャズドラマーと知り合ってからだと思う。彼のドラムに憧れたのは、彼が演奏しているテープ(当時はカセットテープ)を聴いたとき、彼は歌の物語(歌詞)を解って、その物語をドラムで語っていると感じたから(こういう感受性が私はずば抜けてるんです)。その後解ったのは、彼はドラムをプレイするより歌う事の方が好きな人だったの。彼が私のプロジェクトに参加してくれた。初めて私の歌を聴いたとき、いろんな事を理解したのだと思う。私がどれほど、歌を愛しているのか。英語がままならない私がリーダーだったレコーディングセッションを彼は私の気持ちを理解したうえで引っ張ってくれた。彼が私に特別に優しかったり、理解をしてくれたのは、私の繊細さを解っていたのだと思う。彼は、私の繊細さを理解していた唯一の人だった気がする。言い換えれば、私にこの(厄介ともいえる)繊細さが無かったら、得られなかった出会いだと思う。
私は自分(の心)を殺すことに耐えられないけど、「大好き」も我慢できない。その「大好き」は音楽やミュージシャンに出会った時に爆発する、時がある。反対に、気持ち悪い演奏を聴くと気分が悪く成ったり、怒りがこみ上げたり、トイレで吐いたり・・・。だから、自分にとって気持ち悪いと感じるライブミュージックに出会うと、出来るだけ体中のセンサーを硬直させて受けないようにしてた(今は上手く聴かないように脳をセットできる)。
繊細さん。HSP
繊細ゆえにかなり生き辛いものはあるけど、私に喜びや幸せを運んでくれた、受け取れたのは、この特性があったからだと思う。この特性は「ギフト」であり「武器」でもあると、20代の頃から思っています。
私は、社会ではかなり生き辛い性質だと思うけど、繊細(すぎる)ゆえに人の感情やエネルギーを感じ取る(取れる)。それを仕事にしている。それを目指したのではなく、そうするしか生きていけない自分が「辿りついた」と言う感じだと思う。
テレビが苦手で、音が鳴る暮らしも苦手。離婚の原因の一つはテレビでした。テレビが流れてる暮らし、自分が求めない情報がどんどん流れていて、それが私の中に入ってくる。それを処理できずに、混乱するんだ。それで、「テレビ消して!!!!」と、彼に叫んだりする。人が殺される映画が流れていると、私の中に何かが入ってくる。だから「そんなもん見るな!!!」と、叫ぶ。彼は繊細さんじゃないので、全く理解が出来ない。でも、私には耐えられないんだ。(今も友達の家とかでよく「テレビ消して」という。勝手に消すこともあるw。ごめんよ。)
ちなみに、ドキュメンタリーとか、人が殺される映画も、自分で「(知りたいから)見るぞ」とちゃんと意識して準備すれば大丈夫。でも、あまりにも残虐なものはきつい。
気づけば、ひとりで静かに暮らせてる。
近年は、人ともあまり会わず、社交をあまりせず。
家の中ではあまり音楽をかけてない。
部屋も結構シンプルに。
静かに暮らしていると、心が穏やかだ。
HSPの特性が反映されてるのだと、気づく。
そういえば、この前、ある友人が、「そんなでよくキューバとかに居れたね」と。
私は多分HSS(High Sensation Seeking)というタイプで、刺激(物理的もかもだけど知的な刺激とかが大好物)を求める性質だと思う。あと、海外に居ると、物理的や精神的な刺激は勿論多いけど、言語での情報が限られるんです。言語があまり解らないから、必要だと感じること以外は耳(脳)に入ってないの。それは、アメリカに住んでいたころもあったと思う。だから30歳くらいで日本に帰ってきてテレビをつけてた時に、必要だと感じない情報が流れて無意識に吸い取っていて処理しきれない自分が居て、気が狂いそうになった時期がある。
そういえば、若い頃から、外に出るときの殆どはイヤホンで音楽を聴いてるんだけど、そうすることで、外でのいろんなノイズやエネルギーを遮断してたんだと気づく。
なんとなく、自分で理解して、やっていた事のいろいろが近年は「なるほどね」と解りやすく分析してくれてる。とはいえ、それはいい訳にするのは(人生)もったいなく、「自分」を受け入れて、とうまく折り合いをつけて「生きていく」しかない。そうすると、そうできると、そういう一見厄介そうな性質は「ギフト」(もしくは武器)だと気づけるのかもしれない。
誰かのせい。何かのせいにして生きている限り、その人はその人の人生を生きれないのだと、私は思う。
繊細さは、生き辛いかもしれない。でも、自分をあきらめずに、向き合って生きていれば、それが「ギフト」だと気づくのかもしれない。
いや、(与えられて)ギフトでもなんでもなく、それがその人(もともと持っているもの)、なんだと思う。
遺伝の要素が大きいともいうけど、魂の性質のような気もします。が、私の父や祖父、姪もそういう性質がある気がするので、遺伝もあるのだと思います。が、遺伝か、魂か・・・。卵が先が鶏が先か、みたいな感じで解らないですね。
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スピにハマる人には、「繊細さん」多い気がするんです。
生き辛さから、スピに来る人多いと思うのね。で、見えないものを感じ取れることがいい事のように、それが「能力」と思われる(思いたい)。でも、感じるだけでは何も解決しない。かえって問題を混乱させる、もしくは、非現実に意味を見出させる。そういう沼にハマる人たち居ると思う。