【「自分」を受け入れる】
いまさら、な感じもするけど、最近、もう少し深い部分で、その事と向き合おうとしている。
いままではただ、存在としての自分を受け入れる。包み込むというのか。
どんな自分であれ、ありのままを受け入れるという感じ。ある部分ではインナーチャイルドのワークに似ているのかも。どうしようもない、聞き分けのない「自分」に耳を傾けて、そういう自分を受け入れていく。
自分に影響した出来事や人たちを、大人の頭で理解しようとする。その事で理解できたことは、手放すことが出来る。そうすると、鎖がほどけたような感じになって、一歩一歩「自分の足で歩く」。誰かのコントロールや影響ではなく、「自分」の心、体、頭、で体験をしていく。幼少期(チャイルド)から青年期に移行していく感じ。
「「自分」の心、体、頭、で体験をしていく」を「青年期」とすると、次に「成人期」のようなものが来る。
青年期は、成人期で経験した事が身になっていき、自分の考え、行動等々にも責任を持つようになる。と言う感じ。こうなると、物事を誰かのせいにするとかが無くなる。
今の日本は幼稚な人が多いと感じるんだ。誰かのせいにしたり、誰かがどうにかしてくれるとか・・・。実は、感情解放のワークをする時の大きな壁は、自分が精神的に幼少期にある事に気づいて、受け入れてもらう事。40~50歳の大人がそれを認める事はとてもしんどい事。そこから、こんどは大人の階段というか、自分の意志で選択して一歩一歩歩んでいく、「青年期」に移行させるんだ。周りに合わせたり、流されたりで、「自分」を軸に生きてこなかった人たちは、受け身的な生き方を身に着けていたりする。それを、能動的、自分の意志を軸に生きる方向にシフトさせる作業をする。
私は、感情解放のワークに取り組んだのは37歳だったと思う。40歳の頃にエッセンシャルオイルに出会って、オイルを使った方が解放しやすいと実感したので、オイルを使うワークをしているの。
41~42歳位が、青年期への始まりで、45歳くらい(キューバに行く始めた頃)は青年期。キューバで成人期になって、日本に帰ってきた49歳ごろから何かが変わってきていた。その変化が、体の変化なのか、精神なのか。多分両方だったと思うんだ。
コロナであまり活動できなくなった事は私にとっては都合がよくて、じっくり自分の心と体に向かい合う事に使っています。
「心と体」。この二つは、私がこの世に生きている限り連れ添うもの。
「体」に関しては、若い頃には当たり前だったこと当たり前じゃなくなりだして、40代までは何とか誤魔化しがきいてたことが誤魔化しがきかなくなった事でやっと気づけた。
中学生の時に「(私にとって)世界で一番大切なものは?」と問いかけたときに「(私の)心」と。「(自分の)心」には多分人一倍フォーカスしてきたし、振り回されもした。「(自分の)心」は世界中で一番厄介なものだった。
この「心」(自分)とうまくやって行けないと、私は一生苦しむのだとも思った。それより、もう、ほんと、壊れる寸前というか、壊れていたとも思う。だから感情の事にここまで取り組んでこれたのだと思う。
幼少期、青年期、成人期。今は成人期から次に移行している時期なんだと思う。
この2~3年、「自分から見える景色」が変わって戸惑っていた。
周りが変化しているのではなく、自分の中で変化が起きているんだと思う。これが成長なのかもしれない。
この数か月やっているのが、「自分を受け入れる」という事に向き合ったり、考えたり。
今やっている「自分を受け入れる」という取り組みは、「幼少期から青年期」、「青年期から成人期」に取り組んだものとはちょっと違う。
まだ未知なことだらけだった「幼少期から青年期」。インナーチャイルドワークでもあるような、自分の受け入れ。
自分で感じ、考え、自分を軸にして歩む「青年期から成人期」。人格形成というか・・・・経験からその人が形成されていき、それがある程度「その人」を形作って出来上がった感じ。自分がやった事の成功も失敗も自分の経験として受け入れていく。
今いる場所は、成人期→何期というのだろうか・・・。熟年期とかかも。(となると、次は老年期?)
ここで感じている事。向かい合っている事は、成人期までにいろんな経験をしても変わる事がなかった部分。それは、遺伝かもしれないし、魂の性質とかかもしれない。
そういう自分の部分を、掘り起こしてみたり、見つめ直してみたり。
そういう部分は、変わる事は多分ないから、受け入れるしかない。(宿命と言われる、国籍、性別、家族とかも、変わることはないから受け入れるしかない)
誰かに憧れたり、羨んで、そういう風になりたいと思っても、だいたいなれなかった。誰かの言う幸せや価値観は多くの場合自分にはそぐわなかった。自分にとって不要な価値観のようなものは削いで、それより、どうしようも、こうしようも、変えられなかった自分の中のものを、きちんと受け入れて、大切にして、生きる(暮らす)、こと。
こういう作業をしていると、自分がくそ面倒な性質を持っているのかもと、改めて感じる。
くそ面倒な性質を持った自分であったとしても、生きている限り、私は私から逃げることは出来ないのだから、自分を受け入れ、生きていけたほうが幸せなんじゃないかと思うんです。