ネットを見ていると、ときどき、うざったくなってくる。

7月に、キューバのダニエラがデモで逮捕されたでしょ。Facebookを見ると、多くのキューバ人が「キューバに自由を」みたいなことを激しく投稿していた。

キューバ政府を支持している人たちは殆どそういったことを投稿してない。

この騒動はどういう風に起こったのだろう。

SNSで拡散される。

そもそも、FacebookやTwitterってアメリカのモノ。アメリカが提供している場所。アメリカのプロバイダ。

どうしてキューバが苦しんでしまうのかというと、アメリカから経済封鎖、というか、爆弾が落ちない戦争みたいなもの。カストロやフィデルのキューバ革命以降その戦争が続いているんだと、私は思っているの。

私がそう思っているだけど、そう思ってない人もいる。

あの革命でキューバを離れた人たち(親米)、特にマイアミに移り住んだ人たちは、逃げたのか、追い出されたのか。ある意味何よりも敵だったりする。アメリカのキューバ人コミュニティはそこが基盤だったりする。

対立したい人たちもいるだろうけど、対立させられている人(踊らされる?)たちもいると思う。

彼らの投稿を見ながら、いろんな事が嫌になった。

何が正しいかなんて、それぞれの立場からの主観でしかないきもする。

そもそも、私は完全なる部外者で、キューバの友人がそれぞれ何を選択するのかは、ただ見守る事でしかない。ここに妙に足を突っ込んで、何らかの正義を訴えてしまうと、滑稽である。

そんな事をふと考える。

そう、ネットを見ていて嫌な気がしてしまう、うざったくなってしまう一つは、いろんな人が、それぞれの正しさを主張しているからのような気がする。

ニュースですら、偏りのない報道ではなく、何らかの思想や考えがあっての偏りのある報道だったりする。

そういうニュースを見た人たちが、彼らの正しさを語る。

YouTubeを試行錯誤している中で、何を語るか、どんなことを語るか、それは、本当に悩む。

自分が正しいと思っている事を多くの場合人は語るんじゃないかと。もしくは何らかの意図があって利用の為に何かを語るというか・・・。

でもね、その「自分」がどれだけの事を知っているのか。その「自分」正しいと思っている事はただの思い込みかもしれないし、もしも、それが本当の事(事実)、だったとしても、多くの場合、「自分」の「なにが正しくて何が間違っている」というフィルターがかかっていて、その、彼らの主張のようなものを私たちは耳にする。無意識に聞いていると、いつの間にか彼らのフィルターを通して発信される事が「正しい事」だと徐々に思っていくような気がする。もしくは嫌になって消したりとかね。

近年、「多様性」という言葉をよく耳にするよね。

でもさ、この「多様性」という「言葉」だけが「形」として一人歩きしている気がする。

人種の事やLGBTにしても、抗議や主張をすればするほど、滑稽に見える。

「多様性」というものを受け入れることが難しいから、強く強調してしまうのかもしれない。しなくては、伝わらないとか。

多分さ、そもそも、人間って、「異質なもの」を排除したいと思ってしまう生き物な気がするんだ。そうやって生き残れてきた。

昔さ、自分の住む町がすごく居心地悪くて、嫌だった。その時にね、わたしは異質な細胞なんだと感じたの。多くの人は別に全く悪気はないんだけど、異質な細胞を排除しようとしてしまうんだろうなと、か。悪気もないし、無意識に。身体ってそうやって維持されてるんだよね、多分。

それが良い事か悪い事が解らない。多分そういう本能みたいなものが人間の中にあるような気がするの。特に、小さな社会とかは。

グローバル化に伴い、ダイバシティ(多様性)の受け入れが必要になった。

経済・暮らし・情報・人々、いろんなものがグローバル化してきている。そうなっていっている現実の中で、多様性を求められているというか、多様性の理解が必要になってきているのだろう。でも、それすらも、妙な正義感や正しさの押し付けにも感じる事がある。

女性の議員が少ないとか、女性蔑視の発言だ、とか、それが悪い事のように、批判的に外国が言うのは不思議でならない。日本の歴史や文化を理解せずに、自分たちのスタンダードを「正しい」として、批判している気もする。

彼らの「正しさ」に便乗して、またいろんな人が批判を発信する。

なんだか、滑稽だと感じる。

異質なものを排除しようとしてしまう遺伝子のようなものが人の中にあるとしたら、多様性の受け入れはとても難しいチャレンジなのかもしれない。

時代が変われば。
場所が変われば。

「正しい」と思われていた事はそうではなくなる。

ときどき思うんだ。
例えば、キリスト教をすごく信じている人たちの考えって、自分とは全く違うなと。それを信じている人たちが時々滑稽に見える。どこかの奥地の原住民が病気は悪霊のせいだと儀式をしているのが滑稽に見える。

んだけど、輪廻転生を信じて、ご先祖様や八百万の神に手を合わせる、私たちも彼らにすれば、滑稽に見えるのだと思う。

今、時代はすごい速さで変わっていく。
人々が簡単に遠くへ移動できる。
インターネットに世界中の情報が溢れている。

それぞれが、自分の中の「正しさ」で人をジャッジする。ネットではそれが溢れている。

「正しさ」という基準があったほうが生きやすいし、「正しさ」は美徳であったと思う。

でも、「正しさ」基準が多岐にわたりすぎると、もうそれは基準にはできない。

「正しさ」に固執していたら・・・滑稽に見えるのかもしれない。

「正しさ」は美徳ではなく、滑稽なものになるのかもしれない。

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今日の写真は、栃木の友達が送ってきてくれたお野菜(^^)/