朝のストレッチ中、最近は呼吸を意識してなんちゃってヨガをしている。

数日前、ストレッチ中に、忘れていたような記憶が出てきた。

20代前半のニューヨーク。肌にひんやりする乾いた空気。小さなストリートの空気。古い楽譜屋。冬のチャイナタウン。明け方に行くダイナー(コーヒーショップ)、あの頃の友達・・・。映像と空気が流れた。

あ、こんな事あったな。と。心地よく懐かしく、嬉しかった。

今朝もストレッチ中に、そういう懐かしくて心地のいい記憶が流れてこないかなと、ちょっと期待をしていたけど、流れなかった。残念。

でも、朝から、なんだか、嫌な気分がちょっとあった。懐かしい感じの嫌な感じ。

洗濯機を回し、朝食を食べて、コーヒーを飲む。

なんだか、心と体が重い。身体だるいな、と、諦めて、ちょっとだけ寝てみようと布団に入る。

だるくて、すぐに眠りに落ちた。

 

30分くらいで目が覚めた。

気持ちと、身体が重だるい。

みぞおちと、肩甲骨まわりが重くだるい。

肩甲骨まわりを感じ取ると、「【許せない】残骸」と聞こえる。

みぞおちは、「恐い」と。

懐かしい感覚だった。

昔の。解放しきれていない感情の記憶、残骸が浮かび上がってるのだと思った。

 

何が「許せなかった」のか。

何が、どうして、どういう風に「恐かった」のか。

今だから理解が出来ることがある。あの頃はもちろん、今までも、理解できなくて解けなかった(解放で来てなかった)のだと思う。

コントロールされていた。と思う。そのコントロールの外は未知で恐かったし、外に行こうと思うとそれを阻止しようとか、否定しようとする外部のエネルギーのようなものも恐かった。自己否定感も強く持ってた。

何かをしようとしても、いつも「恐い」が襲ってきてたんだ。

「許せない」と感じる事や人は、昔はよくあったと思う。近年は、少なくなったというか、どうでもいいとか、関わらないようにすることが出来るようになった。けど、過去の「許せない」が、私の心の壁にこびりついていたと言う感じかな。

そもそも、私には「許す」という言葉の意味がよく解らない。その出来事、相手に対して、「私」が「許す」というのは、権威が私にあって、相手を許すというPermission(許可)を与える、というイメージがするんだ。だから「許す」って、「私、なに様?」って風に思ってしまってた。

でも、私の中に、「【許せない】残骸」があるようだ。

 

これは抜けにくいな、と思い、オイルを使うことにした。

なんか、リラクシン、な気分。

背中、肩甲骨まわり、肩、腰、胸、みぞおち。

横になって、力を抜く・・・・。

「哀れみ」という文字が浮かぶ。

私は、誰かを「可哀想」と思う事がとても嫌いだ。「可哀想」って、自分はOKで相手は気の毒とか、ある意味、下に見てる気がするんだ。だから嫌な人にはあえて「可哀想」と使う時はある。

でも「哀れみ」と文字が見えるので、iPhoneで調べてみたり。

私が個人的に「許せない」と思う人たちというのは、多分、何らかの彼らの理由で私をぞんざいに扱ったり、馬鹿にしたような事をやった人たちなんだと思う。

どうして、彼らはそんな事をしたのか?

どうして、そんな事をするのか?

多分、彼らの中にある、何かしらの辛い事、悔しい事、悲しい事が、彼らの存在(自尊心のようなもの)を痛めつけたり、傷つけたりがあったりで、痛いから、自分を護らないといけないから、自分が上手くやるために利用したりとか、妙に上からとか、虚勢を張ったり、よく見せるために、得をするために、踏みにじったような事をしたりとか。

そういうんじゃないかと。「哀れ」な人たち、なのかも、と。

なんか、嫌だな、と感じる人たちをいろいろと振り返ると、結構当てはまる気がした。

でも、どうして、そういう人たちと私は関わるのか、関わっていたのかというと、私も「哀れ」な人だったのだと思う。

 

でも、人って、だいたい、誰もが、「哀れ」な部分を持っているんじゃないかと思うんだ。

いろんなものが、世の中にあって、きらびやかだったり、よく見えそうなものを、よく見せて、私たちの中の「弱さ」や「不安定さ」を刺激して、何が大事なの変わらかなくて、必死につかもうとしたり、誰かを利用したり、けおとした迷走する。

だから、、、もしかしたら、「自分」と一歩一歩歩調を合わせて生きていけている、よく解らない価値に翻弄されずに、現実的というのかなぁ、そういう人はあまり「哀れ」じゃないんじゃないかもとか思った。

でも、そういう人(「哀れ」じゃない人)は少ない気がするんだ。

みんな、それぞれが、模索してて、もがいてて、迷走してて・・・外ばかり見て、「自分」になかなか辿り着けないのかも。

人間って、多くの場合、そういうものなんじゃないかと。

 

それでね。「許す」っていうのは、ひとりひとりがいろんな事情をもって、もがいて生きていて、そんなひとりひとりの人生をジャッジするのではなく尊重することが「許す」ってことなんじゃないか。とか。

「許せない」と思っているのは、自分という範囲でしか物事を見れてなかった。私が許すとかじゃなくて、人間はそもそもうそういうもので、生きている、生かされてる。Permission(許し)を与えているのは、わたしではなく、宇宙とか、世界とか、なんかそういうの。

それぞれに事情があるんだけど、それを考慮できなかった。自分の小ささ、かなぁ。

でもさ、自分って、大して大きい訳じゃなく、小さいんだと思う。

誰かの事、誰かの人生を、ジャッジするより、自分自身と向き合い、一歩一歩歩く(一歩一歩は小さいす)事なのかなと。

 

そう・・・「許す」ってそれぞれの事情や人生を尊重するという事で、ある程度距離を持って他人と関わることが大事なんじゃないかと。

「ある程度距離を持って他人と関わる」それは、他者に妙に依存しないとか、投影しないとか、そういう事なんじゃないかと。

「許せない」という気持ちを持つ相手には、「期待」を裏切られたりとか、「そんなはずじゃなかった」「そんな人とは思ってなかった」とか。どこかで「依存的」なものがあったのだと思う。

という所まで、なんとなく整理が出来たので、布団から起き上がり、PCに向かいました。