最近、「自己肯定感」という言葉をよく目にする。

言葉でいうのは簡単だけど、自分の中、核に「自己肯定感」を持つことは、根付かせることは簡単な事じゃないと思います。

20~30年前だと「ポジティブシンキング」という言葉が、安易に、よくつかわれていました。

上塗りのようにポジティブシンキングをしても、根がネガティブであればかえっておかしなことになると思う。

んだけど・・・よく考えてみると言い方が変わっただけで、Positiveって「肯定的な」、という意味で、Negativeは「否定的な」ということですよね。

尊重されて、肯定的に育ててもらえると、自然に根付くのかもしれないけど、否定されて育った人が自分への肯定感を持つことは、本当に大変だと思います。

私は後者です。自己否定感はまぁまぁ無くなり苦しくなくなりましたが、完全に無くなっているというわけではなく、ただ、以前のように自分の存在を否定することはかなりなくなり、根拠のない自信や肯定というより「アリ」という感じです。否定でも肯定でもなく、これも「アリ」という感じで、疑問を持ったり、考えたりはすごくしますが、否定はしなくなりました。

と書きながら、

「根拠のない自信」というのを持っている人は強いといいますが、否定的に育てられてしまった人は「根拠のない自己否定感」を持ってしまう気がします。

どちらも、誰かによって植え付けられて、育っていくという感じがします。その「誰か」はやっぱり親だったり、きょうだいといった子供のころに自分より力や決定権がある身近な人たちなんだと思います。どちらも根拠の「根」は見えないだけで、「根」があって育っているのかもしれません。

先日、友人と話をしていて、「否定されない、攻撃されない、自分を守るために戦わなくていい。たったそれだけで、とても安心してるし、たいしてなにもしてないけど幸せな気がするんだ」と言いながら、涙が出ていました。

その時に、子供のころから当たり前だった家族のことが、どれだけ辛かったのか、改めて気づきました。

今では、「否定されない、攻撃されない、自分を守る為に戦わなくていい」という環境が当たり前です。でも、昔はあの環境が当たり前で、その環境はおかしいことではありませんでした。

あれは本当におかしかった。そう心の底から思えるようになったら、それが当たり前になったら、自己否定感が薄れているのかもしれません。

先日、ある別の友人と話していた時に、ふとした事から私の子供のころの話になり、その友人は「そんな家族おかしい」と言いました。その時に、ふと、改めて私の家族はおかしい、と、考えてみたというか、おかしい家族だったとしても、それが私の家族で、育った環境で、受け入れたというか、理解したというか、で、それが私の人生の現実で、でも、それをこれからの人生で、私にとってあのように扱われることが「当たり前」ではなく、まったくもって受け入れられないこと、許されないことだと私の中で当たり前に思えるようになっているということは、私の中に植え付けられた自己否定感が枯れてしまえたことなのかもしれないと感じました。

自己肯定感を持つというより、自己否定感を枯らすこと。自己否定感を枯らさないと、自己肯定感を持つことはむつかしいのかもしれません。

自己否定感が根を張って育ってしまっているので、優しくて温かい他人に出会っても自己肯定感がなかなか深くは育ちません。

でもね、そういういろいろが、人生で、そういういろいろが私なんだと思います。それが、生きている、ってことなのかもとも思います。

そう思えるようになれたということは、少なくとも、自分の人生を肯定できてるということなのだと思います。

「自己肯定感」と言葉でいうのはとても簡単です。

「言葉」はとても簡単です。