前にも書いてたかもだけど(どうだろ?)。
ただ生きていれば、いいんじゃないかと。最近つくづく思う。数年前からそういう風に、なんとなく。
何を頑張っていたのだろうとか。
何になりたかったのだろうとか。
ただ生きているだけで、結構大変じゃないすか?頑張らないといけない時って、まぁまぁあったりもしますよね。
でも、そのがんばりが、自分以外の人の期待や、自分以外の人に認められる事へのがんばりだったりすると、ながーい人生の中のどこかで、なんというか、自分の中の空虚感みたいなのを感じてしまったりとか。
結局、自分が自分、私がわたし、でいる事が認められなかったり、理想や期待をかけられたり。そういう中で育つと、生きている価値のポイントが違ってくるのかもしれない。ここで言っている「違っている」は、間違いとかじゃなくて、「違い」「Difference」という事で、その人たちがそこに価値を置いているのなら、それはそれでいいというか、私には関係ないというか、それが尊重というか。
価値観に「正しい」とか「間違い」ってないだろうし、自分の価値観が「正しい」と思うと、ほかの人の価値観が「間違い」と、自動的にしてしまう。
「ただ生きている」という事を、怠惰とか、自分勝手とか言う人もいるかもしれない。
「ただ生きている」だけだったとしても、「ただ」の中にいろんな事があったりする。もし、「ただ生きている」という事を惰性とか、自分勝手という人がいるなら、その人の方が自分の価値観を押し付けて「自分勝手」で「迷惑」な人なのかもしれない。
自分のただしさや、価値観でジャッジしたり決めたりする人が、私の身近には多かった気もする。だから、この国に居れなかったのかもしれない。んだけど、私も、そういう人だったと思う。
否定されたり、ジャッジされたり、馬鹿にされたり。そうすると、その何倍もの力で、自分を肯定しようとしてしまう。そうしないと、自分が死んじゃうと言うか。アメリカに居た頃に、誰も別に私を責めてないのに、否定してないのに、相手と考えが違うだけで、必死になって自分を肯定しようとか、自分の考えを押そうとかやってしまっている自分に、気づいた。
そういう環境で育ってしまって身に着いた事なんだと、気づいた。
気づいても、理解できても、そう簡単には変わらない。
違う環境や価値観の中や、人たちの中で暮らしてみて、記憶というか、新しい、違う経験を塗り重ねて、変わっていくことな気がする。
今までの価値観と違う人たちの中にいると、最初は戸惑うけど、その価値観に適応していく気がする。適応できるようになっている時には、新しいというか、新しい価値観を身に着けているのかもしれない。
そういえば、アメリカに行って3年くらいした時に、「(自分が)息をしてる」「息をしていいんだ」と感じた。でも、息の仕方がよくわからないし、今までの癖はそう簡単に変わらない。「自分で居てもいいんだ」とか、自分で自分を当たり前に受け入れられるようになったのは、40代半ばかもしれない。
そうやって考えると、23年間で身に着けたものは、23年くらいかかって変われるのかも。とか。わかんないけどね。
「ただ生きているだけ」だけど、色んなことがあるし、色んなことを考える。
誰かの為とか、誰かにどう思われるとかじゃなくて、自分はどうしたらいいのか。どうしたいのか。自分の目の前の問題をどう解決したらいいのか、どう納得したらいいのか。それだけで手いっぱいだったりする。
ただ、私が、私で生きている。誰かが勝手に、影響されたり、考えたり、その人の選択でやったりする。
私も、誰かの生き方を見たり、触れたり、巻き込まれたり(これも結局は自分の選択)、しながら、考えたり、影響されたり、新しい経験をしたり。
人と出会ったり、交流したり、そういうのって、それこそが、なんかさ、生きてるなかで偶発的に起こる素敵な経験とか、学べるとか、考える経験になったりするんだと思う。
無理しなくても、ただ生きていると、そういう事は偶発的に起こり、無理しない方が、自然にやって行けるのかもしれないとか思う(んだけど、無理している人たちの中だと、無理をしなくちゃいけなくなるかもね)。
で、自分と価値観が合わないとか、否定的な人たちとかとは、無理に一緒に居なくてもいいのだと思う。価値観が全く合わなくても、否定されても、無理しても一緒に居たい(理由がある)のなら、居ればいいと思う。
どっちでも、いいんだと思う。自分で選択すればいいのだと思う。