資本主義とか民主主義とか何かそーゆーめんどくさそうな話のシリーズです。
「資本主義」への疑問は、この数年、10年近く、そのシステムの中で苦しくなっていく自分と社会のシステムと価値観と人間の持つ欲求と、資質の違いから来る。そのシステムの中での有利性、競争…。
勝ち組とか負け組とか。
お金を稼げるとか稼げないとか。
言葉にうまくできないけど、このシステムに気づかないと私たちは幸せにならないんじゃないかと。
もちろん、幸せの定義はみんな違う。
定義が違うと言うより、その時の欠乏しているもの、周りと比べてしまうこと、劣等性、刷り込まれた価値観。で、資本主義と言うのは、そういったものを刺激することで結構成り立っているシステムな気もする。
思うに、「社会主義」「共産主義」がいいわけではない。だから、資本主義に問題があるからと社会主義ならいいと言うわけではないと思う。
だから、結局は資本主義や社会主義とか「なんとか主義」ではなく、幸せになるためには、「自分の場合」、どういう価値観を持ち合わせて生きていけば良いのだろうと考えることが大事な気がする。
さて、資本主義の疑問ですが、賢く、お金を稼ぐことができる人たち、資産を持つことができる人たち、資産を引き継いでいたり、頭脳や環境は資本主義の成功への有利性がすごくあると思うの。成功が経済的、社会的だとすると、その価値観では、それらがうまくできない人たちは落ちこぼれる。俗に言う負け組になってしまう。
社会を見ると、メディアを見ると、そういった人たちが成功者であったり、みんなが憧れる目指す生き方であったり、暮らしぶりであったり、意図的にそういう価値観を刷り込んで、そうなりたいと思わせているのではないかと思うことがある。
実際には能力にはそれぞれ違いや差がある。そういったことにたけてない人たちにとっては、その競争が非常に苦しい。
私にとってはとても苦しかった。
昨今の日本では、そういった能力が低くて、何かの補助を受けている人たち、保険料や納税の額の低い人たちそういった人たちを見下す人たちもいたりする。
高い税金を払っている人たちは、そういった競争である程度勝っていたり、稼ぐ能力があるのだと思う。いや、そういう人たちもそういった価値観や競争の中で苦しいのかもしれない。苦しいから、すごく頑張っているから、そういった人たちを見下したり攻撃するのかもしれない。
日本は、資本主義でありながら「社会」「共同体」としてのシステムもある。結構社会主義な部分もある。それは初めから、人々には、能力の差がある。能力に平等なんてない、ということが前提なのではないかと思う時がある。
誰かを攻撃するよりも、自分がある程度稼ぐ能力を持っている、そういう有利性に気づいたらどうだろうと思ったりもする。自分が当たり前に持っている能力は、決して他者にとって当たり前ではないのだと思う。
私こそ、日本の社会の落ちこぼれである。
思い起こせば、子供の頃から学校と言う社会の問題児である。家庭の中でも問題児であった。学校も親も既存の「社会」の価値観をベースに私を評価していたのだと思う。
既存の社会の価値観と言うのは、資本主義であったり、日本特有の社会の中で、ある程度お金を稼いで生きていく。そして、できることなら、家庭を持ち、子供を育てる。
私は完全にドロッパーだ。
だけど、人間として価値がないわけではない。
そんな私だから、社会の価値観や、資本主義の問題などぐずぐずとダラダラと長々と考えていられるのだと思う。考えて、自分なりの落とし所を見つけないと、自分の存在意義、自尊心はボロボロだ。
民主主義の問題。というか、私は民主主義を全く信じていない。それはどういう意味かと言うと、多くの人たちが自分があるようで、本当は自分がなく、自分よりも賢いとか、強いとか社会的に成功しているとか、そういった人たちの意見や考えに、そういうものがいいと思ってしまう。多分、何かを偉そうに言えるほど賢い人なんてほとんどいない。いや、賢い人ほど偉そうに言う事は無いのだと思う。
自分が知っていると思って、偉そうに言える人たち、彼らの声は強く大きい。そして自分が知っていると疑いもなく信じてしまっている人たちは、自分を信じれない人たちを惹きつける。
そういった心理をわかった上で、力やお金のある人たちが様々なメディアを使い、私たちに情報を与える。そういった情報を身に付けた人たちがいう「民主主義」は、結局はコントロールされた上での民主主義でしかないのだと、思う。
この資本主義の社会で力のある者たちはコントロールができることを知りながら、それがわかった上で、この民主主義が作られているようにも思う。
そんなことを言っている私はほとんど世捨て人である。
ほとんど世捨て人であったとしても、死ぬわけにはいかない。だから考える。