振り返ってみると、私は音楽に関わる事で死んだ人ともうすぐ死ぬかもしれない人の事をよくする。

ここには書いても、怪しまれないと思うから書くけど、時々死んだ人の声が聞こえたり、会話をしてる。

私の父は、先祖供養と前世供養を得意というか、私の目から見てその事には長けてた。だから、思いを残した人の魂をどうしたらいいのかって、ティーンエイジャーの頃から考えたり、疑問に思ったり、試行錯誤してきた。

私は見える事よりも、見えない事の中に大切な事があると思ってた。だけど、見える事が大事にされる世の中や社会で、何度も何度も、見える事や物に翻弄されてもきた。

時々、私に起こる事、特に音楽に関わる事で起こる出会いや、経験をすごいって思う人もいる。嫉妬をする人もいた。若い頃、20代の頃はどうしてそういう事が起こるのか、そういう運を持っているのか、解らなかった。だけど、この年になって振り返ると、私が音楽をお通してやって来たことは一貫している気がする。

死んだ人のことか、もうすぐ死ぬかもしれない人。

もうすぐ死ぬなんて解らない。だけど、振り返ってみると、そうだったりする。

そういう時の私のエネルギーは、すごかったりする。突き動かされてると言うか。

どうして、そういう時に、そこまでのエネルギーで動くのか。

父の背中越しに死んだ人たちが残した「想い」をたくさん見てきたからだと思う。その想いをキャッチして、動いて、それが満たされた時、その魂は想いの「重い」がなくなって、遠くに昇っていく。

みんなみんな、聞いて動くことはしない。そんな事をしていたら、体がもたないし、事と場合によっては危険な目にもあう。だから、見極めないといけない。

もうすぐ死ぬかもしれない人の事も、やることがある。

それは、その人と私の関係性の中で、そういうタイミングがあって、互いの魂が何かを解消させる。「想い」を残させないように。

それを遣り損なったら、「後悔」として心に残る。

「想い」は死んだ後も残るので、少しでも想い残しを少なくするために動く。目に見えない事だから残した「想い」を解決させてくれる人は少ない。多分非常に少ないと思う。言い換えれば、見える事に価値を持つ人の方が、この世の中では当たり前で、私は変な人なんだと思う。

その見えない解決されない「想い」は、目に見えないので本当に厄介で、霊感商法と言われたり、よく解らない霊感商法みたいなのですごくお金を払ったりすることもある。

私が、感情解放をとても重要だと思っているのは、残す「想い」は感情で、多くの場合、目に見える事や目の前の事を追っかけていたり、手いっぱいだったり、そこに価値を置いてしまうと、自分の心やもっとその奥の事には向き合えない。

そういう人たちは、たぶん、きっと、いろいろと「想い」を残して死んだ後に後悔するんだと思う。

そしてね、先祖供養とかで子供や孫がもしかしたらやろうとするかもだけど、お経をあげても「想い」は解決しない。会話をして、話し合って、折り合いをつけて、やれる事をやってあげて、想いを軽くしてあげて、そう、気が済んだ、って感じかな。そうすると、上がるんだ。

供養って、死んだ人の感情解放だったりする。
そうね、まさに、死んだ人の感情解放ね。

そうそう、そういう事を書くと、先祖がどうとか、相談する人もいるけど、そんな事よりまずは自分自身の感情解放が一番先。そこをやりながら、自分を知って、心を知っていくと、亡くなった人の事も供養しやすくなるんだ。

形じゃないんだ。
誠意とか、真心とか、そういうのなんだ。