って、私だけでしょうか。
食べ物と同じで、いっぱいありすぎると、うっかり食べ過ぎると、消化不良やらなんやら。
「数年前まで、こんなにあると、消化不良起こすわ」
って思ってたけど、最近は、吐き気がする。
Facebookのフィードを見ていると、この5年位で広告の表示が非常に多くなって、色んなページの投稿を紹介してくれる。
私は、音楽関連がいっぱい出てくるんだけど、昔、私がティーンエイジャーの頃は、私が聞くようなアメリカの古い音楽などは自分が意識的に強い興味を持って探さないと出会えなかった。だけど、今はどんどん流してきてくれる。それをいちいち見ていたら、きりがない。
お金も財産だけど、時間もそう。
いかに私たちの「時間」を得ようかとしているようにも感じる。
いい音楽も、聴きすぎると吐き気がする。
「うまいでしょ」という感じで出てくる物は、もうたまらない。
食べたいものを、食べたいときに。
聴きたいものを、聴きたいときに。
どんなご馳走も、押し付けられると、食べたくなくなる。
いかに情報を減らすか。
と思っても、すごい勢いですごい量の情報が流れていて、うっかり入ってくる。
「興味」や「知的好奇心」といったある種の欲をどうしても持ってしまっているから、気になるとうっかり読んだり、見たりしてしまう。
一つの事に深く向き合う事がむつかしい気もする。
よく思うのが、昔は一枚のレコードを何度も何度も聴いた。
子供の頃は、レコードが一枚2500円してたものね。
大切に、大切に、キズを付けないようにして、カセットテープに録音してたね。
時々、そんな時代が懐かしく思う。
私は好きだった。
レコードが宝物だった。
キューバも変わって来てると思うけど、余り物が無くて、選択肢が無くて、インターネットも限られていて、友達の家でコーヒーを飲みながら、だらだら喋る。喋らなくても、なんとなくそこに居る。そんな日が何日もあった。「時間」を共有し、何かが育っていく。
暮らしの中に、隙間がいっぱいあった。
それは、こころの余裕でもあったと思う。
みんな、忙しい。
私も、結構忙しい。
忙しいと心が亡くなる。
吐き気を感じられている間は、まだ心があるのかもしれないね。