時々、というか、結構よく、「憧れます!」と言われることがある。
多分だけど、海も渡って、なんやらかんやらする、そういう行動力とか、生き方とか、そういうのかもしれない。
私は今日(クリスマスイブ)も、すっぴん、ぼさ頭、部屋着でボロくさく家にいる。これが現実だ。
だけど言い換えれば、そういう事はどうでもいい事で、自分の中の優先順位がそれじゃないのだと思う。
この古民家に住み始めて。
「憧れの古民家暮らし」というのがある事にを知った。薪ストーブも結構憧れ系だ。
だけど、古民家の暮らしも、薪ストーブも半端なく大変だ。お金がいっぱいあるならいいかもしれないけど、私の場合は、資本主義とかに対する疑問の先にお金じゃない豊かさとか言いながらも、金銭的には貧しさを選んでいて、誰も住めないと言うか、何度か入居者が決まっても1年もせずに出てしまう物件。この家、1年以内に出る場合はペナルティがあるんだ。だからペナルティを払っても出ていくような家。
それと、薪ストーブも。風がすーすーの古民家で電気の暖房を使うのはお金をどぶに捨てるようなもの。ガスファンヒーターもプロパンなので恐ろしく高い。灯油を買うにも車が無かったし、坂があるので、運べない。
どうしよう・・・。
で、薪ストーブにしたんだけど、恐ろしく大変です。
薪ストーブに関してはまぁ、ちょっと私も憧れたんだけど、それで、気付いたんです。
「憧れ」というのは、壁の向こうと言うか、雲の向こうというか、自分には出来ないとか(思い込んでる)こととか、そこまでの労力を使ってまでやらないけど「なんかいいな」っていう物なんじゃないかと。
薪ストーブの大変さは半端ないです。
煙突や杯の掃除も大変ですが、それだけじゃありません。チェーンソーで木を切ったり、どこかでもらってきたり。切りたての木は水分を含んでいてとっても重いんです。で、それを1年から2年乾かすんです。お金があれば買えると思います。
火を起こして、薪をくべるのも、結構大変で、作業に集中できません。で、最近は、どうしてもやりたい作業がある日はストーブを入れずに、着こんでいます。これがうちの「現実」。室内8~10度までは着込めば大丈夫です。
私は、「憧れ」というものがあまりないんです。無くなったんです。
それは、たぶん、私は、欲しいもの、やりたい事に対して、非常にエネルギーを注いでしまいます。
憧れの人にも会えたり、憧れの世界を垣間見たり。でも、その人や、その世界が私にとって心地がいいのかというと、そうじゃない場合が殆どで、その度に「自分」というものを考えてしまいます。
「自分」という「現実」を。
その「自分」という「現実」にとって心地がいい人や、場所を選んでるんだと思う。
だから、「憧れ」より、「現実」が好きなんだと思う。
もちろん、「憧れ」で会う事が出来て、「憧れ」で行った世界で、素敵な「現実」に出会い、大切な宝物になった人や思い出もいっぱいある。でもそれは、もう「憧れ」じゃなくて「現実」なんだ。
自分が、「現実」に出会った人や、実際に行った場所。経験。
そして、それを自分の記憶の細胞に埋め込んで、「私」が育っていく。
今のクソ大変な暮らしも、私を育ててくれてると、思う。
写真の中のやかんに私も写ってる
それと、ひとりで過ごす人へ。ちょっと寂しいクリスマスソング。
これは、私が、誰も見なくても、評価されなくても、ただ歌う。というチャンネルです。