「あなたの魂は・・・」と、誰かに、見えたり、聞こえたり、高次の存在、宇宙の存在にアクセスできる人に教えてもらいたい。

わからない事もない。私も昔はそうだったから。

だけど、今思うことは、誰かに言われたことは、そうかもしれないけど、そうはいかない。

その人は、何を見て、どこを見て、言っているのかは、それぞれかもしれないけど、言われてできることじゃない。言われて、成れることじゃない。その言葉を妙に信じ込んだり、依存したりすると、ちょっと勘違いな方向に行ってしまうことが多い。とはいえ、そういう事も、その魂にとって大切な経験と段階なんだと、今は思う。

もし魂はそうだとしても、そこに至るには、今からそこまでの行程をどうするか。どう歩むか。

私は、「使命」というものは、誰かに遣わされてその命を使うようにと生まれてきてる意味ではなく、自分が自分の命を何にどう使うのか、何を経験するのかということだと思ってる。言い換えれば、誰かから指名を受け生まれてきたと思いたい人は、自分が無く、ある意味、奴隷になりたいというか、奴隷になりやすいのかもしれないとか思う。奴隷じゃ無くとも、家畜とか、ペットとか、誰かのコントロール下にいたいのかもしれない。

とはいえ、そうやって社会は成り立っている・・・成り立っていた、そう作られていたと、色々なことが明るみになってしまった今は思う。

今年に入って、そういう、歴史や社会の仕組み、国際社会の仕組み・・・そういう、裏とか闇が表に出てきて、いろいろ調べたりしてた。短くとも、日本は明治維新以降はかなり見事にそういう仕組みに取り組まれてきてると思う。でも、長い目で見たら、千年か二千年なんだとは思う。

私たち世代は、時代は、学校や大人たち、メディアがいうことを信じ、彼らの信じた、もしくは画策して築いた価値観や仕組みを信じて、追っかけてきた。

メディアや学校で取り上げられる機関や知識、常識のようなものほど、実は仕組まれたものだったりした。そうやって、将来の、生き方の方向を決めて、生きてきた、人が多いと思う。

でも、本当に大事なこと。自分の魂にとって大事なことは、自分の中に訊くしかない。それは、多くの場合、そういったお金、地位、名誉、学歴、物質的な豊かさとはかけ離れていたりする。だけど、本当にその魂が自分の使命を果たすために、もしも必要であれば、必要な経験であれば、そういったものが付随というか、ついてくるんじゃないかと思う。

私たち世代や時代、明治維新以降、特に太平洋戦争(大東亜戦争)以降の世代は、見事なほどに、そういう価値観で、必死で何かを追っかけてきたり、追っかけさせられた人も多いと思う。

それらを疑わず、信じてやって来れた人たちは、誰かに使われる命という使命を求めてしまう傾向にあるようにも思う。だから、自分の使命を誰かに教えてもらいたいと思うのかもと。で、見えるとか、なんとか、で、教えてあげる人たちも、そういう価値観で生きてきた人たちが多いのかもしれないと思うの。

自分の心に訊くしかないんだ。

自分の心が、なんか違う、違和感とかをもったり、苦しくなったり、自分がおかしくなったりしそうだったら、それは、その人の魂が、本当のその人が、反応してるんだと思う。

今回、自分の家族というか血縁のメンバーを見ながら、眺めながら、同じ血の元に生まれて、同じとか、似たとか、その延長の環境で育っても、その魂が今回経験しようと決めて生まれてきたテーマやカリキュラムは全く違う。誰が正しいとか、間違いとかじゃなく、それぞれの段階というか、上とか下じゃなく、横や後ろ、斜めにも広がる段階というか、層というか。それぞれが、それぞれの経験を得るために生きてる。誰かと比べたり、きょうだいだからと比べても、全く意味がない。

もし、理不尽だとすごく感じることがあっても、すごく苦しいことがあっても、そこには意味があり、何かの、今世や前世とかの因果を解消してるのかもしれないし、その経験から気づき学ぶためなのかもしれない。

その全ての始まりになるのが、スタート地点につくためのワークが、私が行う感情解放だと、思ってる。